いつかの授業で、絵を描いている時に、生徒の皆さんに木は真っすぐに描かなくても良いと申しました。いついかなる時にも、まっすぐな木だけを迷わずに描いていたら、その時間はまた子ども達の視界から大切なことを奪うことになるのだと考えます。木は嵐にさらされ、苔むし傷つき、幹を捩らせても苦しいとは言わず、ただ大地に根をはり、立っている。来る日も来る日も、来る日も・・・。時折訪れる小鳥。飛び去る小鳥。木は小鳥の止まる枝を差し出し、小鳥が去りゆくことを惜しまない。私自身、そんな人になることが出来たなら・・・と望みます。今まで出会った先生の中には、その様な方が確かにいらっしゃいました。そのような方は、「自己肯定感」や「自尊心」までも行かない、「ただ在る」という、自分の「現象」を見つめさせて下さいました。その方の前では、今、口にしてしまった浅はかな言葉が、愚かな「虚栄」に繋がらなかったかと恥じ、省みる心すら湧く思いが致しました。その方の静かな目が見ておられるのは結局は、個々が天国に持っていけるものだけではないのではと思われる眼差しでした。生徒の一切の虚栄の衣を脱がせることの出来る方。その方こそ、真の教育者ではないかと考えます。皆様方の中には、もう、既に、そうした先生と出会われ、お嬢様を導いて頂いたり、またはこれから目指しておられる学校の先生の中にそのような先生がおられることを思い起こされておられる方がいらっしゃるのではないでしょうか。木はただ在りながら 風を取り込み、葉をまき散らし、雨を全身に受け大地に流し、この世界に密に繋がり在るのだと感じます。周囲と繋がろうとあがくことがないのは、既に繋がっていることを知っているからではないかとすら感じてしまいます。この世の全てが最初から一体としてあることを深く芯に刻み、ただ根を張るのと同時に空へと枝を伸ばしていくのです。木は、その枝が、天に届かぬことも、天には届かぬが、最初から天に繋がっていることも知っていて、それが、人が木に感じる、木の持つ「知性」であるのではと感じます。誰も見ていない深山の桜に感動を覚えるのは、その木が花を咲かせ、散ることを「引き受けている」から、神様から黙って「請け負っている」からではないのでしょうか。「美しい」と称えてもらうことから超越した姿にこそ、神々しい褪せない真実の美があるのではないでしょうか。深山と申しましたが、人の世界に引き戻し、今、病院の一室で、病と向き合っておられる方も全く同じであり、更には、全ての生きとし生きる人に、同じことが言えるのではないでしょうか。何か、特別なことに専念し、勤め、苦難と戦っていなくとも、人生に於いて、両掌で刻一刻と移ろっていく全てを、「現象」として受け止め、「在り続けていくこと」こそ、与えられている「責任」であ
ると考えるようになりました。それは、努力の後に勝ち取った「自信」でも、「自尊心」でも、「自己を肯定する」ことともまた違ったものではないか、と考えております。同時に、私は「人は、誰かに貢献する為に生まれて来た」のでは無いと考えるようになりました。息子が学生時代に見せてくれたゼミの学生の一文が頭から離れることはありません。「何らかの要因で社会に貢献出来なくなったのなら、自殺するしかないのではないか。」という言葉です。その一文に出会ってから、かれこれ、もう5年近く、私は強く「違うと思います。」と伝えるその根拠を求めて参りました。これからの教育では、更なる「成功」を目指して爪に血を滲ませて断崖をひたすら登り続けることでも、孤独感、孤立感、無力感を跳ねのける強さでもなく、鈍感さでも無く、まかり通る薄っぺらな「成功した人生」「魅力的な人」という像を子ども達から取り除いていくことを目指していかなければならないのではないか、と考えております。「誰かに貢献」出来ていなくても、もしも、その人がそのようにして生き続けていられるのならば、それで「約束」は果たされているのではないかと考えます。それ程、今の世の中は、ただ生きていくことだけでも、大変な思いがどなたにもあるのではないでしょうか。今ある職業がこの先消えていくといわれているこの時代、自分の培った実力を信じ、自身を尊敬出来る、ということが、逆境でしなやかさを失いかねないと危惧します。自分の「現象」、「現状」を静かに受け止めていく力を、是非、様々な分野から学校は導き出してあげてほしいと考えます。人というものは、ありとあらゆる状況があるということ、生き方があること、そして、この世の全ての人、生き物、自然は密接に既に繋がりあっていることを、自然科学、文学、歴史、哲学等、あらゆる分野から学び、互いの寂しさを見つめ、互いの持つ違いを受け入れる教育を切実に願い、安心して個を生きられる社会になっていってほしいと考えます。私がそのゼミの学生の一文について考え始めた頃、出会えた、社団法人農村漁村文化協会の季刊「農村文化運動」の中の、坂本尚氏のご講義文を以下、少し引用させて頂きます。「農地について、面積というものはありますよ。だけどね、こう川が流れてきて、田んぼにこう水が入ってくるわけですね、それが田んぼなのですから、この川というのは山から流れてくるのですからね。山の養分がどうかによって、田んぼも変わってくるのですから、ここにある空間と言ったって、ここにある川も隣の田んぼも、あるいは山まで全部含めたものとしてここにあるんですね。・・・天候まで関係しているんですね。「地」だけじゃなくて、「天」まで関係しているわけ、立体的なのですよね」私たち大人は、この不可分に入り組み繋がっている世界を、間違った境界線で断裁し、もともとは密接に繋がり在る世界を剥離する教育を行っているのではと考えますと、身震いを覚えます。これからは、「強さ」を目指すのではなく、「弱さ」と、密に張めぐらされた「繋がり」を眼差す教育こそが大切なのではと考えております。
長崎、熊本で、「隠れキリシタン」の世界文化遺産が登録されましたね。高校時代の修学旅行では、まさに、「隠れキリシタン」巡りが大きなテーマのひとつで、天草、本渡、島原、長崎、平戸などを巡りました。今でもあれこれ、かなりはっきりと覚えております。早くも梅雨明けですね。
7月5日の合同クラスでは、違うクラス同士、初めてお会いするお友達との集団活動も経験して頂こうと考えております。新鮮で充実した授業になりますようにご準備してお待ちいたしております。皆様、どうぞ暑さに負けず、ご自愛下さり、お元気にいらしてくださいませ。