立原えりかさんの童話「あんず林のどろぼう」に出会ったのは、確か小学生の時です。その時には、どうしても好きになれないモノトーンの挿絵(今でしたら、違う感想を抱くかもしれません)に怯え、その本自体から遠ざかってしまったように思います。どんなことがあっても、一度接した本は本来手放すべきでは無いと思うのですが、この本はいつのまにか私の本棚から消えていました。何十年もたってから、ふと、どうしても、もう一度出会い直したくなるたった一行、などというものがあるものですよね。私の場合、このお話しはほとんど1、2度位しか読んでいない筈でしたが、結局、その後常に心にあり、また忘れられない一行がありました。それは、どろぼうがあんず林で出会った捨て子のあかちゃんの目を見たときの「空の色と花の色とがうつっている、透き通った目」という表現だったのです。この表現は私にとり、「清らかさ」そのものでした。そして最近、どうしてももう一度、この「あんず林のどろぼう」を読んでみたくなりました。
ご存知の方も多くいらっしゃると存じますが、簡単なあらすじを申し上げますと、ベテランのどろぼうが、エメラルドの首飾りを盗んだ翌朝、怪しまれぬよう町はずれの人のいないところで腹ごしらえをしようと歩くうちに、いつのまにかあんず林の中に入り込み、そこで迷子になってしまうのです。その林の中で、どろぼうは、捨て子の赤ちゃんに出会うのです。どろぼうはお腹が空いているであろう赤ちゃんに牛乳を瓶から飲ませようとするのですが、飲めない為に、自分で牛乳を含み、赤ちゃんに口移しで牛乳を飲ませようとします。赤ちゃんは、どろぼうの口に吸いついて牛乳を飲み、お腹がいっぱいになると、どろぼうを見上げ、ただにこにこと笑いかけます。すると、このどろぼうに変化が起こるのです。「なんだ、おれは。泣いているのか。」どろぼうは、あんずの花にかこまれて、わあわあ声を上げて泣くのです。そして、盗んだ上着も靴も脱ぎ棄て、赤ちゃんをしっかりと抱いてあんず林から去っていくのです。
このお話しに出てくるどろぼうは、40年も生きてきて、「おかあさんもおとうさんもありません。友だちもありません。ずっとひとりぼっち」だったのです。「50円銀貨を1枚、右のポケットに入れているだけ」でしたが、盗んできたエメラルドの首飾りを左のポケットに入れているところから物語が始まるのです。そのアンバランスさ。<自分のもの>にあまりにも恵まれていないどろぼう。この世の中で、40年もの間、だれからも微笑みかけられたことが無く、もちろん自分から誰かに微笑んだこともありません。両ポケットが、人が生きていくうえでの必要な糧を象徴するならば、このどろぼうは恵みの乏しい右のポケットの、まるで辻褄を合わせようとしているかのように、左のポケットに自分のものではない、他人の物を入れているのです。
一方、あんず林に捨てられていた赤ちゃんは、何か<自分のもの>を持っていたのでしょうか。赤ちゃんの傍には、「どうしても、この子がいては困るので、おいていきます・・・どなたかこのぼうやを育ててください。」という、お手紙がありました。むしろ、「どうしても居ては困る。」という、存在を強く否定している、酷すぎるお手紙です。それでも、赤ちゃんは笑っているのです。「空の色と花の色とがうつっている、透き通った目」をして。
私が好きなのは、この赤ちゃんに、どろぼうがエメラルドのネックレスをかけてあげようとすると、赤ちゃんは、いやいやをする場面です。生きる糧である牛乳は受け取り、それ以外の余計なものを赤ちゃんはほしがりませんでした。そして、大泣きをした後で、盗んだもの全てを脱ぎ去ったどろぼうの「涙に洗われた目に、あんずの花と、うっとり光る青い空がしずかに」映ったのです。作者は、この時のどろぼうの目と赤ちゃんの目の描写をダブらせ、赤ちゃんとどろぼうとを重ねているのです。無垢・・・赤ちゃんは、どんな赤ちゃんでも間違いなくエメラルドのネックレスを必要としないでしょう。しかし、<富>を脱ぎ捨てたどろぼうに、作者はこの赤ちゃんと同じ無垢という賛辞を与えているのだと思います。
この後、このどろぼうは・・・(いいえ、作者はあんず林から出て行ったのはもはやどろぼうでは無いと言っているのですから、言い換えましょう。)この一人の男性と、赤ちゃんは生きていけたのでしょうか。
あんず林で、今まで一切愛を知らずに生きてきたこの男性は「与える愛」に出会い、また、「ただ、そのままに在る」という「無垢」に触れ、これまでの「誰かに愛されなければならない。」と、ひたすら待ち望み、与えられないと失望し、焦りながら生きて来た人生に突然終止符を打つことになるのです。「無垢」とは、また、相手の存在も「あるがままに」受け入れることではないでしょうか。無垢な赤ちゃんであるからこそ、この男性の与える愛に応えることが出来たのではないでしょうか。そう考えますと、例えば社会における「無垢」な存在とは、このいじめ(本当に醜い、ぞっとする言葉です!)が蔓延する世の中にあって、いじめの加害者とは真逆の立場にして、あるがままの相手を受け入れ、生かし、孤独から救い、なお、愛を知らしめる、これからの時代に本当に必要であり、不可欠な存在ではと思うのです。
きれいごとでは無く、人は愛に出会うと、強く生きていけると信じております。シャンソンの中に「お腹が空いても私は平気 下宿なんて追い出されても あなたに会える。私の食べたいのはあなたのほっぺ・・・私の住みたいのはあなたの胸」というような歌詞があります。
この男性は、美味しいミルクを飲ませてあげたくて、この後、どこかで働き始めたのではないのでしょうか。そして、人に微笑みかけることを覚え、そうすると、相手の人も微笑み返してくれることも知ったのでは・・・と私は考えるのですが、いかがでしょうか。
もし、宜しければ、是非、お子様に読んで差し上げて下さい。そして、赤ちゃんに出会ってからのこの男性の気持ちなど、沢山お話しなさってみて下さいね。