皆さま、立秋を迎えましたが、大変な暑さが続いておりますね!お元気でいらっしゃいますか?

最近、お問い合わせが相次ぎ、10月1日に年少さんクラスの体験会を行わせて頂くことになりました。それまでは、とにかくも、夏期講習会後期、そして、模擬面接、そして願書添削と9月10月の年長さんの奥沢でのセミプライベートでの追い上げです!そう・・・今年もあの奥沢の日々がやって参りました。昨日、イリダーレさんでベーコンとブロッコリーのパスタを頂き、美味しいコーヒーを頂きながら、ご指導日を決めてまいりました。8月22日と25日、また、夏期講習会時などに発表させて頂きます。

奥沢・・・好きです。素敵な雰囲気のお店が、点在していて。中でも、素敵なセンスのお花屋さんで、愛しのミッフィーちゃんにそっくりなうさぎの形の鉢飾り(何と言うのでしょうか)を見つけ、今、リビングに置いて、昔のように時々話しかけています。イリダーレさんの3周年のパーティーに伺った際に、こちらでお祝いのブーケを作って頂きましたら、淡いパープル系のそれはそれは美しいブライダルブーケのように仕上げて頂き、感激しました。

また、「粉と卵」さんのスイートポテトも、昨年、お母さま方に「美味しいんですよ!」とお薦めした為に、ご指導後に、お店の前でお母さまと鉢合わせになったこともありましたよね(笑)

実は、もう一軒、ご指導後の私の癒しの空間のケーキやさんがありまして・・・。「an cafe」さんです。こちらのフルーツタルト・・・瑞々しい旬のフルーツにこだわるパリジェンヌっぽい店主さん。お話していると、お仕事に対するお気持ちが、私の気持ちと重なるところがあり、落ち着きます。だからこのお味なのね!と納得してしまう、心のこもったケーキです。

さて・・・。本題から外れました。最近、つくづく思います。親であることは、本当に難しいことであると。中でも一番難しいと思うのが、「子どもがどんなタイプであろうと、どんな状態であろうと、まるごと覚悟を持って引き受ける。」ということなのではないでしょうか。これは、まさに教会での「病める時も健やかなる時も・・・」の結婚の誓いにも似たことですが、夫婦とは違って、我が子がどんな状態でもそのまま受け入れることの難しさは、皆さまもよくご存じのことでしょう。

先日亡くなられましたサッカー選手の松田選手のお母さまが、参列者の方に凛とした態度でご挨拶されるのを拝見し、「ああ、この方は見事に最後までどんな状態であっても、我が子を受け止め、引き受けられたのだ。」と感じました。子どもには元気で、明るく、幸せでいてほしい!いつも幸せそうに屈託なく笑っていてほしい。そう願う思いの連鎖を、一度断ち切って、本当に、それが現実的に可能な事なのかを、よく自分に問いかけてみる必要があるのではないかと最近よく考えるようになりました。悲しみが、苦しみが、失敗がその子を作っていくのです。親が、それを嘆いてはいけない。恐がってはいけない。そんなことを考えるようになりました。

子どもが学校を休んで山の斜面に寝ころび、一日雲を眺めに行きたい、というのを許したある親の話を高校生の時に聞きました。印象深いお話でしたので、今でも覚えているのです。雲の為に学校を一日休むのは、大変なことではないか、という思いが当時はあったのだと思います。でも、その子どもは後に素晴らしい詩人になったそうです(お名前を覚えておらず、すみません!)。その子にとってのその一日は、止むにやまれずのものであったのでしょう。たった一日のことですら、私たちは何かに追い立てられるようにして日々子育てをしています。「お休みするなんて、とんでもないことよ。」と私なら言うでしょう。・・・でも、実は何ものにも追われてはいなかったのだ、と、渦中に無い今になって言えるのです・・・。

もっともっと、小学校時代にじっくりと魂を、心を大きく動かす時間をあげたかった。そう思います。先日NHKで見た映画『マルセルの夏』(原作マルセル・パニョル「少年時代の思い出」・監督イヴ・ロベール)は、あまりに素晴らしく、見終わってすぐにDVDを注文してしまった程でしたが、こんな夏休みを送らせてあげたかった・・・と心の底から思いました。何も、プロヴァンス地方で夏を過ごすということではありません。心の中で父親を庇い、誇りに思い、出会った不思議な魅力の友人に魅かれ、一緒に過ごしたひと夏・・・。心の中に沸き起こるさざ波のような思いを描いた映画だと思うのですが、そうした、心の中のさざ波を、子どもが自分で自覚し、それを大事に育めるような静かな生活。ゆったりと流れる時間の必要性を痛感したのでした。何かに追われているのでは、父がいくら好きでも、父の誇りを守る、あの冒険には行けなかったでしょうし、不思議な年上の友人への憧れも、刹那で終わっていた筈です。同じプロヴァンス物語として、もうひとつの『マルセルのお城』の最後に語られる、少年の人生のその後。あんなに美人で若々しかったお母さんや憧れの友との時が、永遠ではなかったのだと見ている側もほろ苦い気持ちにさせられます。・・・このはかなさは、まるで、私の母との日々のようだわ、と、描かれている真実に共感しました。

ゆったりと・・・そして、子どものどんな状態も、もっともっと大きな気持ちで見守る母になること・・・。かつての私は、子どものちょっとした発熱でも動揺し、ほんの僅かな悲しみの影を小学校から帰った我が子の顔に感じ取れば、寝られずに悩んだものでした。でも、思うのです。「もっと、覚悟して受け止めてあげれば良かった」と。人間には「治る力」があるのですもの。そしてまた、「自分で治す力」を作っていかねばならないのですものね。

不思議なことに、母親が心の底からそのように考えているということは、そのまま子どもに伝わるようです。そして、子どもの心が大変安定するのではないでしょうか。

今までの子育てに対しての自分の考え方の連鎖を、一度断ち切って、見つめ直し、新たに構築していくのに、遅いということはありませんね。一体、自分の子育ての理想、基準は何処からきているのか。自分の考えというものを持っているのか。見つめ直すと、案外、その基盤が見えて来なくで愕然とすることがあります。自分は母なのに、自分の考えで育てていなかったのかも知れない。では、誰に?何に?判断基準を委ねていたのでしょう。

子育てはこうあるべきなんて、100人子どもが居たら、100通りあるのではないでしょうか。
同じように、子どもはこうあるべき、という枠も、本当にその子なりの道をゆく為に、邪魔になり苦しめるものではないでしょうか。

昔々、私は小学1年生の息子を連れてサーカスに行きました。「初めてサーカスに行くと思うと、わたしはワクワクしてたまりませんでした。」・・・そのようなありきたりの日記の文面のごとくに単純に楽しんでくれるものと思い、「ね、サーカスって、楽しいわね!。」私は息子に耳打ちし、馬の上で人が逆立ちをしたり、ハラハラする空中ブランコを見ていました。すると、息子が言いました。「あのね、お母さん、僕ね・・・。」息子は困った顔をしていました。「僕ね、今、楽しいのか、解らないの。」「え?」私は驚き、そして少しガッカリしました。「だって、ゾウとか、すごかったでしょう?」「でもね、これが『楽しい』かどうか考えたんだけど、もしかしたら『楽しく』ないのかもしれない。」私は、本当にガッカリし、そのことを主人の母に話しました。すると「凄いわ!凄いことよ!自分の気持ちをその言葉の通りか、考えてみるなんて。」と肯定してもらえました。しかしながら、当時の私には、ただただ夢中でサーカスに見入り、「あ~楽しかった!」と喜ぶ子ども像が望ましかったのです。今思うと、その願いや基準は何から来ていたのか不明です。先日息子にそのことを話しましたら、「『楽しい』んじゃなくて、『面白い』か、と聞いてくれたら良かったのに。」と不敵な笑みで答えました。面倒くさい子どもですが・・・仕方がありません。千差万別の子が居る中、私にはこの子どもが与えられたのですから(笑)