映画『贖罪』の出だしは、確かタイプライターを打つ音でした。思えば、私の日々の生活はそのように途切れずに続く、せわしない音の連続であったようにも思えます。留学している息子に会うという目的の、短いマニラへの旅で私が得たものは何だったのでしょうか。今日は皆様に、私の旅のお話をさせて頂きます。パソコンの連打音をお聴きになるように、私の旅の始まりをご覧くだされば幸いです。

成田出発が午後5時25分のANA。それなのに、家でギリギリ2時過ぎまでお仕事をしておりました。結局横浜駅に向かうタクシーの中で調べた結果、成田エクスプレスは出たばかり。リムジンバスYCATに決定。乗り場にたどり着いたのが2時半。15分後、昼食も忘れていたことに気づき、缶コーヒーを購入。荷物を預けてバスの一番前の席に座り、人心地つき…ようやく今、自分が日常から脱したことに気がつく次第でした。

空港で主人と合流し、飛行機に乗り込みましたが、この日は気流が悪く、しばらくは少し揺れました。思えば、これまでの旅で、夕方からの出発はほとんど無かったように思います。安定してから、ふと見た窓の外の夕方の雲海の不思議さに見とれてしまいました。ほとんど誰も見ていない世界がこんなにも確かな存在感でどこまでも続くということへの驚き。しかも、こんなにも確かな存在に見え、歩くことも泳ぐことも叶わぬ幻にも似た雲の海。何度も見た筈の雲海にまで心惹かれる自分は、やはり、息子と離れて暮らす寂しさを、この一カ月間遠くに置いていたのだと考えました。心が澄み渡るような思い。4時間の飛行は瞬く間に終わり、残りの1時間で思いついて見始めた映画「ジュリエットからの手紙」を当然途中で見終えることとなり、少なからず心を残して機内を後にしたのでした。

やはり、南国の暑さである、というのが最初に感じたことでした。荷物を見つけ、ロビーに向かうと、一人の背の高い青年が手を振り、私達の向かう出口へと走っていくのが見えました。息子でした。マニラでは、日本で見るよりも背が高く見えました。それに、随分と日焼けして、毎日お庭のプールで泳いでいるせいか、引き締まり、痩せていました。もう夜の9時半でしたので、空港からのタクシーは少し高くなるけれどクーポンタクシーが安全だから、と息子が乗り場に連れて行ってくれました。そして、英語には敬語は無いけれど、フィリピンではthank youの後にポをつけてサンキューポと言うと、丁寧になると教えられてから、我々はこの時から何度このサンキューポを口にしたことでしょうか。

さて、車が市内を走り始めた時の驚きを何と言い表しましょうか。それは、私の想像の範疇を遥かに超えたものでした。何もかも・・・!一見同じアジアですし、道路も建物もそれ程変わらない筈というのがベースにあるのでしょうか。近くに寄って見ると、街灯も建物も、そこらじゅうを走り回るジープニーも、全てのものが見慣れたものとはまったく異なる未知のものであることにショックを受けました。映画「千と千尋」の中で、千尋の両親が屋台のようなお店でお料理を食べているうちに豚になっていくシーンがありましたが、あの屋台のお料理のようだと思いました。一見、美味しそうな見なれた筈のお料理に見え、よくよく見てみると見たことも食べたことも無い食材で作られているという驚きを感じる世界。これを、カルチャーショックと呼ぶのでしょうね。まだまだ知らない世界があるということをこれほどまでにありありと突きつけられ、私にはまたまた生きて行く喜びが増したように感じられました。それにしても、すごい熱気です。マニラに行くということで、お母さま方からも東南アジアのエネルギーや熱気について伺っておりましたが、まさかこれ程のものであるとは・・・。おりしも、ホセ・リサールの記念祭が近く、そのお祝いの花火が打ち上げられ、クラクションが響き渡り。そうしているうちに、ハイアットホテル&カジノ・マニラホテルに到着しました。ラガーマンの様に屈強そうな銃を持った警備員達と、金属探知機に入口は固められていました。中は本当に快適で、最後の日までゆったりと過ごすことが出来ました。

翌日、我々は遅い朝食後、息子のフィリピン大学について行き、その近くの下宿先のお世話になっている方に御礼を申しあげようと一緒にホテルを出ました。実は、この南国の為に、気に入った帽子を持参していたのですが、息子に止められました。出来るだけ、ツーリストに見えない方が安全だと言うのです。ちなみに、日傘も見かけませんでした。マニラの方々はよく雨が降ることもあり、普通の折りたたみ傘を日傘として兼用しているようでした。(私もさっそく折りたたみ傘を購入し、旅行中、ずっと愛用しました。)
「このエルミタ地区は、一番治安が良くないんだ。」と息子は言いました。さて、それからが大変でした。確かに街は相変わらずの喧騒ですし、猛烈な暑さと何事か話しかけながらついてくる人々。それを息子はタガログ語で交わしながら、街の珍しさに見とれる私を引っ張りつつ、バスに向かって手を上げました。バス停は無いので、有難いといえば有難いシステムですよね。でも、バスは歩道まで寄せてはくれません。大変な車の洪水の中腹で、入口の扉を開き、手招きしてくれるのです。我々は息子にならい、それこそ命がけでバスにたどり着き、中に入りました。中はクーラーがきいていて助かりましたが、街の熱気にあてられておりますと、そこへ突然ピーナッツ売りが乗って来ました。大きな透明のバケツに沢山のピーナッツが入っていて、乗客の中で呼びかけがあると、小さな小さな手作りであろう袋に、器用にスコップで袋詰めして渡すのです。驚いているうちに、一応全員に声を掛け終えた彼は、また来た時と同じに、突然、ピョン、とバスから飛び降りて、姿を消しました。そのような人に、バスはオープンにされているようでした。40分くらい乗ったでしょうか。警察学校の若い溌剌とした生徒さん達も大勢乗り込み、バスが混んで来た頃、ケソン市に到着し、我々はバスを降りました。そこここに、眠り草に良く似た葉の木々が生え、触ったら葉が動くかと触れてみましたが変わりませんでした。市場や商店街が軒を並べる賑やかな所から、ジープニーに乗り、いよいよフィリピン大学に行くのです。ジープを改良したジープニーはドアが無く、車の後ろから身をかがめて乗り込みます。運賃は、乗客同士が当然のようにして手渡しでまわし、運転手に渡します。おつりもまた同様にして戻されます。降りる時には「パーラ」と告げ、降ります。そうしているうちにもフィリピン大学の構内に入って来ました。そして、その広さと規模に圧倒されました。大学構内をジープニーが走り、学生たちは普通に利用しているようです。学生たちは、日本の息子の大学の感じと変わらず、留学生も多く見受けられました。午後からの授業があるので、息子は我々を大学内のカフェに残して行きました。大変勉強熱心な学生達が、大学生活を謳歌している様子を微笑ましく眺めていましたら、向こうの方から見なれた男性と息子がやって来ました。息子と一緒に日本を発って留学したK君でした。K君はひょうひょうとしていて、身体が大きく、頼りになる感じの青年です。4人で下宿先に向かいました。途中、2人は小さなお店に寄り、蜂蜜とプリンが混ざったような甘い飲み物を注文してくれました。冷たく冷えていて美味しかったです。いよいよ下宿に近くなりました。街並みは、本当に整然とした南国らしい美しさがありました。今日見て来たどこよりも落ち着いていて、素敵なところでした。息子達が下宿のドアを開けると、中からいつも息子がお世話になっている女性が迎えて下さいました。優しそうな、少しお歳を召された方でした。そのほかにも3人くらいの女性が、入り口になっている「サリサリストア」の中で「ハロー、マム」とにこやかにご挨拶して下さり、私は手を握り、しっかりと御礼の気持ちを伝えました。朝、夕のお食事と、お洗濯までもして頂いているなんて、感謝の言葉も無く、ささやかな贈り物を受け取って頂くことも出来、少し気持ちが落ち着きました。大きなお屋敷でした。オーナーの方は、今カナダにお住まいだそうです。ちなみに、サリサリとは、「色々」という意味だそうです。3階建で、今、息子と同じ大学からの留学生4人(男性2人、女性2人)が下宿しています。私はいつも聞いていたお庭のプールを眺め、息子の部屋に行きました。なかなか暮らしよさそうでした。しばらくすると、ノックの音がし、開けると先程のお店にいらした女性が冷たいジュースの瓶にストローを差して、お菓子と一緒にお盆で運んで来て下さいました。大変暖かい笑顔を向けて下さり、まるで、日本のお宅に伺っているような気持ちがしました。帰る時には、大粒の雨が降り出しました。今度はトライセクルという衝撃の乗り物に乗りました。バイクの後ろに息子、そしてそのバイクの横に取り付けられた乗る場所に(子どもの頃の遊園地にこんな乗り物がありました。)主人と2人で乗りこみました。重さから言っても、バイクが傾かないのが不思議でしたが、轟音とともにバイクは走り続け、すごい勢いでカーブを曲り、私は修行僧のように心を無にして震動に身体を預けていました。雨は滝のようになって来て、商店街で傘を買う事にしました。選んだ傘を1本1本丁寧に開いて見せてくれ、やはり素敵な笑顔をお店の方もお客さんも私に向けてくれました。女同士、世界の何処でも解り合える。きっとどこに住んだとしても、楽しく暮らしていける。そう、確信できたのもこの時からです。実際、今回の旅で得たもののひとつがマニラの女性の美しい笑顔でした。晴れやかな笑顔を交わすことが出来、日本に住むフィリピンの女性ともっと交流してみたいと考える、きっかけになりました。横浜にはフィリピン人が多く住んでいるのです。

こうして、一日目はまた夕方タクシーでエルミタ地区にあるホテルまで戻って来ました。戻る途中もまた多くの街並みを見ました。マニラの印象を一言で言うと、「下手な映画のエキストラ達を見ているようだ。」という感じでしょうか。街並みに無数のエキストラの人々を隙間なく配置し、何かをしていて下さい、とお願いしたような、とでも申しましょうか。どの街並みを曲っても、どんな細い通路にでも、人々は必ずまんべんなく居て、そして、必ず何かをしているのです。「下手なエキストラ」と言ったのは、監督によったら、「そんなに均等に何処にでも人が居て、必ず何かを全員がしていては不自然極まりないだろう。」と怒られそうな程、本当に、必ず人々は何かをしているのです。お肉を焼く人、子どもの世話をする人、店先で会話を交わす人、車を磨く人、水浴びをする人・・・。生き生きとして、活動している、そして誰かと繋がっている人々。それは、タクシーの車窓から見ると、まるで並列に流れる躍動感に満ち溢れた人の生活絵巻でした。細い路地では、大勢の子ども達がバスケットをしていました。あんなに大勢のお友達で毎日遊んでいたら楽しいでしょうね。一人の3歳くらいの子がお店の方からお隣の自分の家まで歩いていくのが見えました。堂々と自信のある歩みであると感じました。この子は自分が一員であると知っている。そんなことをふと思いました。日本に帰って人のほとんど歩いていない街を見て、人とのつながりの遮断を考えさせられました。

マニラを人の体に例えるとすると、その内臓のひとつひとつがしっかりと機能し、何処を開いて見ても、不全な場所が無い、というようにも感じられるのです。それ程、生きているのを感じさせてくれました。日本は、もしかしたら同じように例えると心臓部など、ある箇所だけは異常に稼働し続けて疲弊し、ある臓器は冷え切って動きをほとんど呈していない、いわば生気無い身体、臓器同士が繋がらない身体を想像させられるのです。

フィリピンという国に初めて触れた一日目でしたが、一日目にしてその圧倒的な音と気温と人々の活動に我を忘れ、また魅かれてしまった一日でした。この国のエネルギーに息子は育てて貰えている、そう感謝とともに感じ、留学出来て本当に有難かったと、心の底から思いました。

次回は旅の後半を書かせて頂きます。