私がテレビのアナウンサーでした!と申し上げたら、エッ??と多分びっくりされますでしょうね!そうです、私、小学校の校内テレビ放送のアナウンサーだったんですよ[E:happy01][E:shine]すみません!びっくりされましたよね。当時、ベルマークが山ほど集まった学校では、なんとベルマークでテレビカメラなどの機材を購入したとの記憶があるのですが、本当でしょうか。ともあれ、一年生から六年生までの各クラスが順番に番組を用意してお昼の放送に出演するという、大変大掛かりな教育プログラムが組まれ、放送委員になった子供が、カメラを回すことから、アナウンサーやら、番組の進行まで全てのことを担当していたのです。登下校時には、下級生から「あ、あの人学校のテレビの人だ!」と無邪気に指さされたりしました。

子供ながらに、上手く人生が廻っていると感じていた矢先、転校が決まったのです。引っ越しが近づくにつれ、空虚感も胸に広がって来ました。あの時、確かに私は住んでいた全ての場所、人、事柄にしっかりと根をおろしていたのだと思います。(転校先の横浜では、無理に掘り起こされたむき出しの根っこを持てあますことになるのですが、ひとまず、そのことは置いておきましょう。)

さて、そんなある日のこと。音楽の授業でクラスメイトは音楽室へ移動し、教室には男の子と私がまだ残っていました。その子が来て言いました。「僕、好きな人がいるんだ。」「そう。」私は急いで支度をしながら言いました。「誰か知りたい?…君なんだ。」私は驚きました。何と答えたのかも覚えていません。その翌日のことです。担任の先生がニコニコして私に、「机の中を見てごらん。何か入っているよ。」と言われました。先生の笑顔には、なんだか不安を掻き立てるものがありました。私は、机に何があるのか見たく無い気持ちがしました。私は誰もいなくなった教室で、机の中の包みを手に取りました。それは、本でした。『雪の女王』という題名でした。それに、昨日の男の子からの手紙が添えられていました。翌日、先生に「君は本が好きだからと、アドバイスしたんだよ。」と言われた時、また淋しさが体の中を駆け抜けて行きました。あと数日で転校して行く私でしたが、まだまだその小学校の一員のつもりでいたのです。去っていくと決まったから、伏せられていたことが当然のように公にされるのは、既にそれまでの日常に反していたのです。私は、転校によって、引っ越す前からそれまでの平穏な生活や、そこで打ちたてたアイデンティティーを失った不安をかみしめました。・・・ご理解いただけるでしょうか。例えるならば、あと一日しか生きられないとして、どんなにしたいことでもして過ごしなさい、と言われても、やはり、私は現在の家族との何気ない日常の中、普通に暮らすことを選ぶでしょう。そんな気持ちかもしれません。現世とのお別れに世界遺産を見に行くのも悪くないでしょうが、それよりも、この日常が私には何より価値あるものなのです。いえいえ、その価値すら感じずに生きられる幸せって、本当に貴重だと思うのです。

結局、その子にも、先生にもそのことについては何も語らずに私は転校して行きました。(なにしろ、子供ですみません。)おりしも、時代は60年代後半から70年に突入するところで、テレビでは、連日学生運動等の喧騒が放送され、横浜の空はどうしてこうも、灰色なのだろうと、胸の中の空虚感は日増しに膨らんで行きました。新しい学校には、テレビカメラなどは無く、偶然、放送委員の子の転校で、私は新しい学校の、またしてもアナウンサーになりました。と言っても、声だけですが。最後の授業が終わると、校内放送室に駆けて行き、「お掃除の時間が始まります。」等と、放送していました。バックミュージックに、好きな曲をかけても良いと先生に言われ、毎回私は一番好きだった<くるみ割り人形>の中の<こんぺい糖の踊り>をかけ続けました。

私は、その時の寂しさを誰にも話していなかった筈です。両親にも、妹にも、お友達にも。心を開いて話しているようでいて、いつも心に蓄積させていくこともあるのでしょう。なぜ、話さなかったのかと言えば、まだ自分の言葉で上手に言い表せなかったのも一因にはあるのかもしれません。空虚感は、私の胸の中で、中学、高校時代、けっして消散することはありませんでした。