…朝です。冷たい空気の中、ベランダに立つと、遮る物が何も無い空間が海に向かって広がり、その夜のしじまの切り裂かれた裾から曙の熟れたような紅色と山吹色、濃紺、紫の光が揺らめいているのが見えるのです。水平線の形、地球の形の円形に、その輝く色彩の層は、見ている間にも、刻一刻と色彩と幅を変化させつつ、女王を招く為の前座を務めているかのようです。私はそのあまりの美しさに言葉を失い、何も出来ずにただ佇んでいるのです。…朝、目を醒ます為に最近楽しんでいる、ベランダでのひと時。海には大きな客船のような影も見えて。
映画「タイタニック」の中で、今でも良く思い出すシーンがあるのです。名場面でも、何でもありません。それは、既に船が沈みかけ始めた時の、ある客室のシーンで、女性が、避難を促されると、「でも、一体何を着て行ったら良いか、分からないのよ!」というような事を言って避難が遅れるところなのです。この女性は恐らくは貴族のような身分で、旅先とはいえ、迷うほどの衣装や装身具を持ち歩いていたのですから、私のようなものが共感してはいけないのかも知れませんが、あの映画の中で、本当に心から彼女に共感を覚えてしまった私でした。…現に、数ヶ月前の、あの誤報。あと数十秒で大きな地震が来ますよ、と、テレビが報じるのを聞き「何を着て逃げたら良いの?!」と、私はバスルームの前でウロウロしていただけでした。(でも、家族は、「大丈夫だから。」と、普通に生活を続けていましたから、我が家の防災意識など、玄関に置いてあるハンズの防災セット(細かい面白そうな珍しいものが沢山詰まっていて、不謹慎にも使ってみたくなる)の意味も無い程のものかも知れませんね!)私の場合、別にきらびやかな衣装に着替えたかったわけでは無く、これがお仕事に行く、お食事に行く、遊びに行く、旅行に行く、等であれば、おそらく、急に言われても、身支度はサッと出来る筈なのですが、地震があって、避難に行く。という時は、どんなものを着るべきなのか。経験が無いのです。いっそのこと、もうグラグラと揺れ始めたならば、選択の余地も無く着の身着のまま出て行くのでしょうが、なまじ、与えられた数秒、もっと有効に使えれば良いのですが。
ともあれ、毎朝ベランダで無為の時を過ごし、どこかから漂って来るコーヒーやトーストの香りに、「そうそう、私も朝の支度をしなくては!」と我に帰り、急いで部屋に戻る日々を送っております。