本日は、久しぶりにブログを書かせて頂きます。皆様、お変わりございませんか。一日降り続いた雨が今、止んだようです。窓の外には雨が降って歓喜しているような緑豊かな森が広がっております。その葉の影からは美しい小鳥の声が響いて参ります。テラスの紫陽花やバラの中にあるベンチに座って、鳥の声に聴き入るのが好きです。紫陽花にも実に色々な種類があり、「万華鏡」の繊細な造りには思わず見入ってしまいます。夜に見ておりますと、どこか別の世界に連れていかれるような感がございます。イングリッシュローズの「まさこ」も今朝また2つ蕾が開きました。香しい香りが漂います。小鳥の声を聴いていて、先日の年長児のペーパークラスでの生徒の皆様の雨の詩にちなんだ素敵な発表を思い出しました。そのお子様ならではのお心に浮かんだ考えを嬉しそうに発表するお子様の瞳は喜びに輝き、小鳥の囀りのようでした。また、一昨日は年中児の行動観察クラスでしたが、描いた絵をもとに、かたつむりの家族が、紫陽花の葉っぱの上で、どんなお話をしているのかを家族全員分の発表をして頂きました。そして、皆様が見事にご自分で考えたお話を皆様の前で発表することが出来、感動致しました。年長さんも年中さんもますます今後のご成長が楽しみでございます。
先日出版されました、清水眞砂子氏の御著書「あいまいさを引き受けて」は、教育に関わる全てのご父兄様や先生方が読まれるべき御本と痛感致しております。巻頭の「働きかけないという豊かさも」の中に出てくる<重い牛を思わせる生徒>が、私も好きです。派手さは無いものの、教育実習の保育中に子どもを抱き、一緒に葉の光を見つめることが出来る先生。素晴らしいと考えます。「ヒトを人にしていくものは」から少し引用させて頂きます。<TVは朝からキャーキャーギャーギャーにぎやかで、落ち着きのひとかけらも見出せません。大人も子どもも常にハイな状態でいることを求められ、ひとりでいることを許されない。「昼休みにひとりで図書館に向かう子どもは要注意」と学校の先生たちが神経をとがらせているという話を初めて耳にした時は、まさかと思いました。ひとり居のひととき、その子どもがどんなに深い世界に生きているか、どんなに遥かな世界に思いを馳せているのかを忘れて、ずかずかと子どもの内面に踏み込むことを私たち大人はしばしばやってしまいます。><・・・そしてそんな状況を映し出すように、世はあげてイベントだらけ。イベントがないのは活力がないことと同じだといわんばかりに・・・><どこか面白いところに連れていってやらなくては、何か子どもの喜ぶものを買ってやらなくては・・・子供はそんなに創造性の貧しい存在でしょうか。・・・そもそも日々のくり返しはそんなにつまらないものでしょうか。ひとり居はそんなにさびしく、わからないことがわからないままに置かれるのは、そんなに耐えがたいことでしょうか。>と続き、文末のこのひとことが、心につき刺さりました。<私は今、人々が避けて通ろうとする退屈もまた、ヒトが人になるためには不可欠な体験ではないかと考えています。>ふと、安房直子氏の「ゆきひらの話」が浮かんでまいりました。ひとりで住む、熱のある、おばあさんの夢の中でゆきひらが、リンゴの甘煮を作って、食べやすいように雪で冷やしてくれると言うお話です。夢には亡くなったお母さんが出て参りますが、それ以上に登場人物はいませんし、特に変わった出来事もありません。女性は最後にゆきひらを丁寧に洗い、布巾でピカピカに拭いて大事にかまどの上に置くだけです。しかし、以前から、人生の黄昏時には、このような過ごし方も受け入れる覚悟は必要かもしれないと考えておりました。捉え方によれば、寂しさもあるかもしれません。でも、このお話には、人生での「退屈」を受け入れた人だけが受け取ることができる、〈ヒト〉ではなく〈人〉の静かな時間がひそやかな美しさとしてあるのだと感じました。「ひとり居」を楽しむことこそ、人間に与えられた至福のひとつではないでしょうか。「ひとり居」を妨げられた子どもは、成長後も「ひとり居」をいけないこととして捉え、内面に深く生きようとする子ども程、周囲からも問題視をされ、辛い状況下に置かれていることがあるのではないでしょうか。しかも、ひとり静かに過ごす時間にまで、大勢で大騒ぎをしている「仲間たち」の写真が携帯を通し、否応なしに生活に分け入って来る・・・今の子ども達は、辛いな・・・と思います。そして、その子ども達のお母さま方も同様に辛いのではと思います。「インスタ映え」という言葉がありますが、写真を撮るときだけ顔を寄せ合えば、意気投合した仲間ということにもなりますね。しかし、どうして、おいしいものを頂き、素敵な贈り物を頂き、仲良し仲間がいることを周りに知らしめなければならないのでしょうか・・・。
また、「本を読むこと、壊されること」に描かれていることも常に心に留めるべきことと存じました。生徒も、先生も本を読まないということが、ストライクゾーンを狭め、<先生たちの言う“正道”からはずれたら、俺はもうだめだと思ってしまう。・・・「先生、私、母親が死んだときにさえ、お腹がすいてパクパク食べちゃった。そんな自分が好きになれない。」(という生徒に)「そんな人は、ギリシャの古典にだって出てくるわよ。・・・味方の兵士の死体が累々と横たわるところで、さあ飯にしようという場面があるの・・・人は、ごく近い肉親が死んでも、お腹はすくものよ。」と。>・・・何が、私たちの「良心」を縛り生きづらさにまで侵食するほどの「呵責」を負わせているのだろうかと改めて考えたいと感じました。
昔聴いたNHKの「みんなのうた」の「ふるいおしろのうた」は、その歌とともに、サンドアートが美しく印象的でした。サンドアートの美しさというのは、今描かれている絵を完全に更地に戻してから次の絵を描くのではなく、例えば今描かれている少女の髪の影が、咲き誇る花の一部へと取り込まれていくことにも感じます。時間の移り変わりが、途切れることなく、今あることが、次への物語の一部となりきっかけとなっていく美しさに息をのみます。その世界はある言葉から喚起され、次々と展開していく詩のようでもあります。人生は繋がり流れゆく。今ある苦しみの影が、次に光輝く花を描く土台になくてはならないこともあるのではないでしょうか。少なくとも、人生を顧みるに、私にはそう思え、また影の上に力強く次の光を描こうとする手が、用意されているのを実感するのです。
雨がまた激しく降って参りました。驟雨
という言葉の美しさを思います。何とか、我が子の名に取り入れたいと思ったことがございました。皆様、どうぞ梅雨寒の日々、ご自愛くださいませ。