梅雨の中休みの土曜日、皆様はいかがお過ごしでいらっしゃいましたか?今、私の足元には猫のミルティがこれ以上長くなれない程伸びています・・・あら?本当に、こんなに長かったかしら・・・?この子のおかげで、ご近所の方とも会話が弾みます。ありがとう、ミルティ(笑)

実は、ミルティは、一度昨年の今頃、危ない状態になったことがありました。ミルティが我が家に来てくれた時点で、大変な病気のウイルス(人にはうつりません)を持っていたことを、誰も知りませんでした。幸いにも、車で3分のところに、チョコリットの昨年のご卒業生の伯父様が獣医をなさっていらして、奇跡的に命を助けて頂いたのです。今でも、コントロールが必要なミルティは、頻繁にお世話になっているのですが、食欲や顔色(鼻の色)などの観察は欠かせません。食べてくれない時には、胸が締め付けられますが、たよりになる名医の先生の存在がどんなに有り難いことか、言葉に尽くせません。チョコリットで結んで頂きましたご縁に、深く深く感謝しております。

今、ミルティは私の足にシッポと両足を乗せて、すっかり安心して眠っています。時折、夢を見たようにピクンと動くのは、まるで赤ちゃんの様ですね。先日も、病院におかけしたお電話で「ミルティの母親でございます・・・。」などと思わず申し上げてしまった私でございます。

さて、最近ずっと考え続けていたことがありました。それは、動物の命を頂くということです。
きっかけは、一週間程前に朝のテレビで、長野県での増えて、食害を起こす鹿の駆除について、ある女性が、鹿の命を無駄にしないように、と考え、自ら猟師となられた活動が映し出されていたのでした。撃たれた鹿を地面に埋めるだけではなく、罠をしかけ、鹿のお肉をさばき、食するということまでを親子に体験してもらうということも行っておられました。昨年息子が鹿猟を取材したと聞いても、特別な感想は持ちませんでした。しかし、今回の番組で、罠にかかった1歳の鹿が、悲しそうに何度も声を振り絞って鳴く姿を目の当たりにすると、もうそれ以上は見てはいられませんでした。「生きたい!」という叫びを挙げる生き物から、絶対命を奪ってはいけない、との思いが強く押し寄せて参りました。。私は、息子に、瞬間的に撃たれる鹿猟と、罠にかかった後、命を落とすということの違いについて、尋ねてみました。すると、彼は「シカ猟で撃たれても、または、食肉センターでも、動物は叫ぶ筈だよ。叫ぶ時間が長いか、瞬間かなんて、関係ないよ。その肉を僕たちは頂いているんだからね。」と言いました。それを聞いた時にも、まだ、私の耳からはあの鹿の声が離れませんでした。考えてみれば、生きたい、という思いが、罠にかかった鹿には強くあり、食肉センターの中に搬送された動物には無いのだということは、あり得ません。しかし、私の中で、そうした動物たちの思い、また、それに携わられる方々の思いに対しては、長年、無意識のうちに蓋をしてしまって来たように思われるのです。(そうした、無意識のうちに蓋をして見ないようにして生きてしまっていることは、世の中に大変多くあり、そこに気が付くことこそが、教養を深める、ということだと最近思いしめたところです。)そうした中で、まるで私に差し出されたかのように出会えた本が「いのちをいただく」でした。そこには、可愛がって育ててきた牛と別れるご家族の方の思いや、その牛に向き合うセンターの方とご家族の方の思いまでが描かれておりました。そして、何よりも、最後に牛が流した涙。私は、これがあのテレビから考え続けていたことへの答えの一部なのだと強く感じました。答えの一部、と言うよりは、大変大きな判断材料を頂けた、と申し上げた方が正しいのかも知れません。

・・・こうして書かせて頂いている横で、まだ、ミルティは眠っています。ミルティへの思いと、この本の中の、牛とともに育った少女の、牛への思いとは、何も変わらない筈です。ミルティを静かに撫ぜるようにして、彼女も牛の名前を呼んで、謝りながら、お腹を撫ぜていたのでしょう。

あの番組の様に、実際に罠の鹿をさばき、食するという体験をしたお子様は、きっと、動物の命を頂く、ということについて、それが、どんなことなのかを心の奥底で、深く受け止め、一生忘れられない程の強さで理解するということになるのではないでしょうか。しかしながら、「小鹿物語」の中の主人公の少年が、大切な鹿を自らの手で撃たねばならなかった後で家を飛び出さねばならなかったように、そして、その後、期間を置き、彼が自分の気持ちを整理して、ようやく家に帰って行ったように、私にはまだ、そうした体験を一体どのくらいの年齢で受け止められるものか、分かりません。この「いのちをいただく」という本も、何歳位で読むことが最適なのかも、迷いがあります。もしかしたら、その時期は、各ご家庭やお子様のタイプにより、違いがあるのかも知れません。ただ、今回のことで、命について考える視点は、本当に多様にあるのだということを教えられました。命を与えられた者同士がひしめき合うこの地球上で、生きていく為に、また、生きて行かねばならない為に、知るべきこと、考えるべきこと、最優先にすべきこととそうではないことの多さを思いました。何でも、もう既に知っている様な錯覚を抱いて生きている足元は、実は、氷山のほんの一角であり、見ようともせず、あるとも思わない世界こそが、その底には巨大に広がっているのだという事実を前にし、戸惑いを感じ、立ち止まっているのが今の自分の姿です。