ブログの中の『不思議な街シリーズ』・・・もう、最後に書かせて頂いたのは何年前でしょうか。横浜美術館で開催中のホイッスラー展を訪ね、感じたことをお子様向けのお話に託したくなりました。

『不思議な街の不思議な画材屋さん』

その不思議な街には、本当に不思議なお店ばかりが軒を連ねておりました。その中に、「子どものための画材屋」と書かれた看板が掲げられた美しい硝子ばりのお店がありました。サッカーボールの様に丸い形のお店は、天井も、壁も、全てが透き通った硝子で出来ているのです。この画材屋さんには、お店の中に頑丈な木で出来たテーブルがあり、子供達がお絵描きをする為のものでした。毎日、近所に住んでいる、生き生きとした目の少女、ルミエもやって来て、テーブルの椅子に腰掛け、絵を描いたり、飽きずに楽しそうにお店の中を見回したりしているのでした。太陽が昇ると、まるで天から虹色の光が降り注ぐように、硝子の天井を通して、七色の光が床で跳ね躍りました。雨の日には、お店全体が雨の巨大な雫の中にあるように感じられ、幾筋もの硝子の壁を伝って流れ落ちる雨は、まるで雨の硝子の雫を包み込む透明な森の樹木のようでした。曇の日には、低く垂れ込めた雲が真綿のようにお店を取り囲み、お店の中にいる子供はなんだか安心して過ごせましたし、風の日には、砂や植物の種、花びらや落ち葉、そして誰かの帽子などがお店の外を踊るように駆け抜けて行くのが見えました。風が吹くと、木々も手足を伸ばして自由に動けるようになり、まるでルミエに風が無い時の木の形ばかりが本当だとは思わないでほしいな、と言っているようでした。君たちだってじっとして静かな気持ちの時ばかりが、本当の君では無いでしょう。木はそう呟きながら、葉を掻き鳴らしてダンスを踊っているようでした。硝子のお店の中からは、季節により、また、絶えず移り変わるお天気により、移ろう色彩、形、が動きを伴って変化し続けていたのです。
さて、この画材屋さんの何が不思議かと言いますと、クレヨンや絵の具の色でした。あなたが見たことも無い様な色までが全て揃えられていたのです。あなたのクレヨンの箱の中には、何色のクレヨンがありますか。この画材屋さんには、本当に驚くべき色の数がありました。丸い店内には、壁一面にグルリとおびただしい数の絵の具の硝子の入れ物が取り付けられ、あなたが描きたい絵にピッタリと思う絵の具を必要なだけ、まるでジュースのようにレバーを押してパレットに取り出すことが出来るようになっていたのです。クレヨンも同じでした。美しい色が、ほんの僅かずつ、次第に変化して並ぶ虹の様なクレヨンの壁から、子供達は必要な色のクレヨンを取り出して来て良かったのです。ルミエは、今までに欲しい色が無いと感じたことはありませんでした。画材屋さんはルミエ達に言いました。「絵が上手くなるということは、色を使いこなせるようになるということだ。最初は誰しも色に使われてしまっている。次第に、欲しい色を造り出せるようになってきたら一人前さ。でも、絵を描き始めたばかりの君たちに、僕は可能な限りの色を使わせてあげたいと考えたんだ。君たちが描きたい色で、描けるだけの色を揃えてあげたかったのさ。」そんなわけで、ルミエ達子供は皆、色を慎重に選ぶということを学んで行きました。そして、もう少し大きくなると、少ない色数の絵具同士を調合して、実に様々な色を造り出せるようになっていったのです。

ところが、ある日のこと、ルミエはお店の窓際に置かれたリンゴが光を載せてピカピカと輝いているところを描こうと思い立ちました。その光は、今まで見たどんなものよりも美しく見えたのです。ルミエはその光を浴びたリンゴに相応しいクレヨンの色を何本か探して来ました。でも、机に戻るなり、ルミエは呟きました。「ああ、また変わってしまった。」と。描こうと思った陽の光が、消えてしまったのです。ルミエは、陽の光をたけたリンゴを描きたかったのです。今、ここに残されたリンゴなど、もう描いてみたいリンゴでは無くなっていました。すると、画材屋さんが言いました。「絵というのはね、目の前にある何かを描き写すことでは無いんだよ。なぜなら、ずっと同じでいられるものなんて、この世にはひとつも無いんだからね。だから、絵にはね、君の心に留まった、一番美しい物を描けば良いんだよ。カメラの様にシャッターを押さなくても、君の心の中には美しい物を見て心が震えた瞬間に、美しさが留まっているんだから。それを描けば良いのだよ。」「でも、画材屋さん、私、まだ、上手に形が描けないの。これは、この間描いた猫の絵なんだけど…。」ルミエはスケッチブックをめくり、描いた猫の絵を見せました。顔から線が出ているのが耳で、曲がりくねった線が猫の身体を現していました。画材屋さんはその絵を見ながら言いました。「おやおや、良く描けているね。君は大人の人の真似をしていないから、きっと上手くなるよ。君には絵も、言葉も、自分で表そうとする芽が育っているように思うよ。耳の位置も正確だね。あとは、猫の耳をもっと良く見て、この線を太らせて猫の耳の形に近づけて行けば良いだけだ。それから、このネコの身体も実に良いね。猫の身体は曲線、曲がりくねった線が相応しい。最後の頭にまで伸びた線は尻尾だね。一筆書きで仕上げたのだね。大人は誰も描けない絵だよ。」するとルミエはやっと安心した様に言いました。「このスケッチブックを買ってもらった時に、直ぐに黒のクレヨンをお父様が私に手渡して、何か描いてごらん、と言ったから、うちの猫を思い出して描いたんだけど、まだ、もっと描きたいのに、うちの子は天才だ、記念にスケッチブックと一緒に写真を撮ってあげよう。と言われたの。でも、まだ出来ていないから、本当は、撮ってもらうのはいやだったの。」「そうだね。大人も、未完成の絵は人に見られたくないからね。でも、お父様は、君が大好きだから、君の描いたものならば、完成していてもいなくても、きっと全てが大切なんだよ。」ルミエは、「そうなの。そういうものなのね。」と頷きました。ルミエは、スケッチブックを畳むと、また尋ねました。「画材屋さん、どうしてお店の中には、クレヨンだけでなく、他にもこんなに絵を描く材料があるの?」「君が猫を描いた時に、クレヨンで柔らかな猫の毛並みが上手く表せたかい?君が大きくなるにしたがって、コンテ、パステル、色鉛筆、水彩絵の具、油絵の具、それらと、硬い筆、柔らかな筆など、あらゆる組み合わせで、一番現したいものに近づけられるようになるんだよ。ま
だ、君は絵を描き始めたばかりだけれど、これからだんだんこれらの材料の中から選び取り、使いこなせる日が来るからね。」ルミエは、スッキリとしたお顔で、画材屋さんにお礼とさようならを言うと、スケッチブックを抱えて外に出ました。冷たい北風がルミエの髪を吹き上げました。ルミエは空を見上げました。北の国から白鳥たちが氷で出来たレースのショールを運んで来て、空に薄く流したような雲が見えました。『冷たいと分かるようなお空も、今にきっと描けるようになるわ。でも、今は、画材屋さんが教えてくれた様に、心の中に浮かんだことや、心の中に残ったものを描けば良いのね。お家に着いたら、お空に見えた白鳥達や氷のショールの様な雲を描いてみるわ。』ルミエは北風に髪をなびかせながら赤々と灯るお家の明かりを目指して帰って行きました。