皆様、お久しぶりでございます。お元気にお過ごしでいらっしゃいますか。ブログを長らく更新させて頂けず、大変ご心配をお掛け致しました。この春を前に、私自身の価値観をもう一度見つめ直す、転機とでも申す様な出来事がいくつかございました。お陰様で、私にはどれ程多くの恵みが与えられているのかを改めて気づかされ、また、新たな出会いもございました。この数か月間をひとことでは語りつくせませんが、これからはまた時々ブログの中で出会えました素敵な事々についてお話させて頂けましたら幸せに存じます。

本日は絵本「きりのなかのはりねずみ」でご存知の方もいらっしゃるかと存じますロシアのアニメーションの作家であるユーリ・ノルシュテインにつきまして、お話をさせていただこうと存じます。絵本も素敵ですが、アニメーションでの「霧の中のハリネズミ」を、是非とも教室の皆様にご覧いただけましたらと願っております。静かな霧の中での物語の展開は子供の心をまるでそのまま映像として映し出したように豊かに、繊細に、ゆっくりと進められていきます。お子様の感想を是非伺いたいです。ノルシュテインの作品には独特の世界があり、その映像と音楽の美しさに言葉を失い、心を奪われます。「霧の中のハリネズミ」の他にも、特に愛らしく、お子様の美的な感覚を成長させてくれそうな作品のいくつかを、いつか教室でお嬢様達に観て頂きたいと考えております。彼のアニメーションを見て、強く感じましたことは「美しさを自分で制限する壁を作らずに表現したい」ということでした。本日は「話しの話」を見て、ノルシュテインが映像詩として語りかけていることを、私なりに解釈しましたものを、覚束ないながらも詩の形式を借り、以下に書かせて頂きます。まだ2回しか鑑賞しておらず、読み込みが足りないのはどうぞお許しくださいませ。皆様にも彼の作品の素晴らしさを一刻も早くお伝えしたいのです。何より、機会がございましたら、是非、彼のアニメーションをご覧になって頂けましたらと存じます。

-ノルシュテインの『話しの話』が語りかけていること-

赤ん坊が母の腕の中でお乳を吸い微睡む
それは、人生の中での至福の無為の時
赤ん坊が目を閉じてしまえば
そこに苦しみが入り込む余地は無い

オオカミの子は赤ん坊を見つめている
オオカミの子はロシアの子守唄から抜け出て来たのだ
止むに止まれずに

雨の林の中に置かれたリンゴから
まるで涙を流しているかのように雨が伝わり落ちる
オオカミの子は知っているのだろう
そのリンゴはその子の将来の姿なのだと
その子も大人になれば、雨の中
孤独に苦しみに耐える時があるということを

オオカミの子は探して歩く
人が生きて行くのに足る人生の意義のようなもの
光るものは何でも覗いて見る
車のホイールを覗き込んでも 何も見いだせない
人生の輝きは何処にあるのだろうかと
オオカミの子は探し歩き続ける
戦争で誰も居なくなったアパートの庭を

オオカミの子は知りたいのだ
何故人は微睡から抜け出し目覚めなければならないのかを
子守唄は教えているのに
「ちゃんと眠らなければ オオカミの子が来て脇腹をつかんで
 森にさらっていって 柳の草むらに置き去りにするよ」
微睡みの内にある幸福が人の幸福では無いのかと
オオカミの子は首を傾げるのだ

オオカミの子は
輝く扉を見つける
そこはセピア色の思い出の時
子供時代の空想の世界
空想の生き物と縄跳びで遊ぶ子供
乳母車を揺する母親
歌うたいは楽器を奏で
ネコは空に大きな魚を浮かべて夢見る
オオカミの子は思う
ここには微睡に似た幸せがあると
けれど、回想の世界に人は何時までも留まれはしない
回想の世界に立ち寄った若者は しばし懐かしい人々と触れ合った後
一人、立ち上がり また前を向いて歩いていくのだ
彼の前に遥か道は続いている

かつて美しい時があった
人々は、愛する人とタンゴを踊り
机を並べてワインを飲み交わしていた 
けれども、人生には突然深い悲しみが訪れ 人々を離散させてゆく
大風が吹き渡り、テーブルクロスは吹き飛ばされてしまった
流れゆく時は人をむりやり連れてゆく
疾走する列車に乗せられていくかのように
だれも、その怒涛の勢いは止められない
ダンスの途中で 人は突如 パートナーと引き裂かれる
愛する人は雪の中 静かに従軍兵士として去ってゆく

「あなたのご主人は勇敢に戦い負傷し
それがもとで亡くなりました」
手紙を貰ったご婦人は 一人になっても踊るのを止められない
人生の中 胸つぶれようとも 歩みを止めることは出来ない
時が過ぎゆき、華やかな花火とともに ある日 愛する人が
帰ってくることもある
再び喜びが訪れるか それも誰にも分からぬこと

戦争に行った人の命は
まるで無邪気な子供が食べるリンゴの様
戦争を仕掛けた張本人はベンチでお酒を飲んでいるだけ
兵士である子供はリンゴが生きている人であることを知らず
連れて来られた公園で ひたすらリンゴをかじり、カラスに突かせる
そしてベンチから立ち上がった大人に急かされ 何も考えずに
また連れられてゆくのだ
子供の手から転がり落ちたリンゴ
食べかけで傷を晒し 雪の中に打ち捨てられ
砕けて散ってゆく

子守唄の中からやってきたオオカミの子は
赤ん坊の至福の時の御供
母の明るく優しい歌声の中に居るオオカミの子は
どうしても分からないのだ
苦しみや悲しみに向き合わねばならないのに
何故人は目覚めるのかと

ノルシュテインは美しい映像の向こうからこう語りかけているのではないだろうか
生きる とは 覚醒して享受することなのだ と。
深く 悲しみを味わい胸を抉ること
幾度と知れず 苦しみ抜くこと
生きるということは苦しみをも受け入れることを覚悟して
覚醒することではないのだろうか
それが人生を味わうこと
そして大人になるということなのだ

雨が静かに降る
誰もいない森の中の
置き去りにされたリンゴの上に
古びた建物の周りに 
思い出の上に
リンゴは目覚めて雨の冷たさをじっと感じている
自らの身体に流れ落ちる雨の新鮮な感覚をじっと佇み味わっている
その情景は神々しい様な美しさを帯びてくる
ひとりでタンゴを踊る人が流す涙も雨である
雨にさらされている人 苦しみや悲しみ 孤独にさいなまれている人は知る筈も無いだろう
その姿そのものが 生きているということなのだということを
そして、人生は苦しみの中にあっても尚 さらに美しいのだということを

雨の中で細々と光る一筋の街燈の光にも似て
人生の輝きは雨に濡れたレンガ道の上でこそ拡散して無数の輝きを放つのではないだろうか

・・・以上が、現在の「話しの話」から受け止めましたことでございます。

本日は、お読み頂きましてありがとうございました。またこれから時々ブログでお会い出来ますよう。どうぞよろしくお願い致します。

風の中に梅雨の気配を感じます。日中と夜とでは寒暖の差が激しいですのでどうぞご自愛くださいませ。