1

メリークリスマス!皆様、クリスマスイブを如何お過ごしでしょうか。さて…こちらの絵は、ひと月程前に奥沢に到着したフェリクス ホフマンの作品「ジュラ地方のクリスマス物語」の絵のほんの一部分でございます。11月23日に絵は無事に奥沢に届けて頂いたのですが…。

実は、銀座でこの絵に出会った折には、細部よりも、とにかく全体の構図を前に一瞬にして心を奪われたのでした。しかし、奥沢でこの絵を迎え、静かに絵の前に佇ずみ、厩の中でイエス様を抱くマリア様のお顔の表情を見た瞬間、私は大きな衝撃を覚えたのです。そして、大変な絵をお迎えしてしまった・・・とのもの思いに囚われたのでした。

これ迄、六本木の教室でも、私は、生徒の皆様に厩の作品を描いて頂いて参りました。その題名も「喜びの馬小屋」とし、マリア様の表情について、「皆さんが生まれた時、または皆さんのご姉妹が生まれた時、お父様とお母様はどんなお顔だったと思いますか。」と尋ね、「嬉しいニコニコしたお顔。」というお答えを元に、マリア様もヨセフも幸せそうなお顔で描いて頂いて参りました。そこに、何の疑問も抱いては参りませんでした。
しかし、ホフマンの絵のこのマリア様のお顔は…!
苦渋に満ち、深い悲しみと怒りすらも感じ取られる、幸せからはかけ離れたこの表情は、いったいどうしたことなのでしょうか。この表情を読み取った瞬間、私の脳裏には次のひとことが浮かんだのです。
「これは降誕の絵では無く、ピエタでは無いのか、、、。」と。

ピエタ。磔刑から降ろされた我が子キリストを抱くマリア様の、あの悲しみと嘆きの表情。ペルゴレージのスターバト・マーテルのCDジャケットにも描かれていた死せる我が子、、、青年の息子を抱きしめていたマリア様のこれ以上は無い苦しみの表情と、ホフマンの絵の厩の中で新生児を抱くマリア様の表情は、驚く程の一致を見せていたのでした。その時から、私の中でクリスマスの喜びについて、また、母としてのマリア様のお気持ちについて、考えが浅はかであったとの思いを胸に、考え続けているのです。いつかのブログで、息子が入園テストで、キリンは黄色じゃ無い、と、黄色のカードを選ばなかった時に、私自身、黄色と思い込んでいたことを書かせて頂きましたが、既成概念に囚われ、真実を見失っており、もう一度考えてみるべきことの多さには愕然と致します。クリスマスを描いた子供向けの絵本にも、救い主の誕生の歓びに湧く人々や動物が描かれている中で、本当はマリア様が、どんなお気持ちでいらしたのか、どのようなお顔で描かれるのかは、とても大切なことでは無いのでしょうか。キリスト教教育の幼稚園と中学、高校に通い、毎年キリスト降誕劇を行ないながらも、私はその点を今まで一度も考えてみたこともありませんでした。勿論、子供が授かる喜びは大きい筈ですが、神様の子供を授かり、宿屋全てに断られ、厩で出産したマリア様の胸の内に、それでも、もし、喜びが満ちていらしたとしたら、その喜びは静かにその唇に微笑みが感じられる性質のものであったと思われるのです。
この絵の右側にマリア様と同じ表情をしてこひつじを抱く子供がいるのです。これは、子供の「ピエタ」であり、やがては子羊が人々の命の為に屠られることを知っている子供がマリア様と同じ種の思いに耐えているようにも見えるのです。幼くか弱き命を抱くものが、皆、感じる畏れの感情。生れ落ちてのち、どの様な運命がこの子に下されるのか・・・。全てを神様に委ねていることが、イコールわが子イエスがどのようになっても平気であり、無心でいられる筈は無い、ということに、今更ながら・・・思い至りました。

以前にも書きましたが、この上なく美しい讃美歌があるのです。中学生の私は、クラスの前で一番好きな讃美歌と聖句を紹介し、一緒にクラスメイトと歌う為に、この讃美歌を選びました。Maria durch den Dornwald gingで、美しいボーイソプラノの動画などお聴きになれますので、宜しければご検索下さいませ。この歌の中に繰り返し出てくるキリエ・エレイソンは、「主よ憐れみ給え」という意味です。

「讃美歌Ⅱ」 124番<マリヤはあゆみぬ>
Maria durch den Dornwald ging

1 マリヤはあゆみぬ キリエ・エレイソン
  茂る森かげの いばらのこみちを
  キリエ・エレイソン

2 胸にいだけるは キリエ・エレイソン
  まどろむおさなご 平和のイェス君
  キリエ・エレイソン

3 いばらの枯れ木も キリエ・エレイソン
  血にそみしあとに 清き花咲きぬ
  キリエ・エレイソン

思えば、この讃美歌のマリア様は、ホフマンの厩の中の幼子を抱くマリア様にとても良く重なります。3番の歌詞では、マリア様の納められていた棺には白いユリのお花が咲いていたということが思い起こされ、マリア様の並々ならぬお苦しみとともに、神様の全てを受け入れられ、浄化された存在を表しているように思われます。

そして、思うのです。ホフマンの描いたマリア様の姿、すなわち苦しみであり、歓びである命を抱く姿は、生きるということそのものを現しているのではないでしょうか。命は苦しみの可能性に満ちているけれど、人はその命に愛おしさを抱く。苦しみを放棄せずに、人は苦しさに耐え、命を抱きしめる。生きるということは、そのようにして、命を最後まで離さずに抱き続けるということではないのでしょうか。そして、母になる、ということは、その子供の人生の喜びとともに、死する瞬間の寂しさをもまで包括して、その子を引き受け、その胸に預かる、ということなのではないでしょうか。例え、自身の方が子供よりも先に死を迎えるのだとしても。ホフマンの絵を見つめていると、母が抱きしめているのは、幼子と重ね、人生を閉じる日を迎えたその我が子が成人した身体でもあるように見えて来るのです。
ホフマンは、何故一枚の絵に時系列に関係なくキリストの降誕に纏わる各場面を描いたのでしょうか。それは、ホフマンが、イエスの降誕をその母マリアの胸の中で、ピエタと重ねて捉え、描きたかったからでは無いでしょうか。

神様は、マリア様のお苦しみを、人が生きるという姿のサンプルとして示して下さった様に感じてなりません。苦しみの対象である命を大切に抱きしめ、頬を寄せる時、その苦しみの対象の奥から希望の鼓動が伝わってくるのではないでしょうか。
「生きる」とは、マリア様の苦しまれるお姿そのものなのだから、弛緩した状態の「幸せ」など追い求めなくても良いのだ、苦しんでも良いのだ、と考えることは、本当に慰められます。命とは、誕生から死まで張られた一本の線のようなものではなく、絶え間なく続く・・・音楽で表すとすれば・・・ピアノに向かって準備をし、思いを込めて指が鍵盤に下ろされ、音が響き渡る前までの瞬間の連続に近いものかも知れない、と、思うのです。すなわち、ある一曲が人生では無く、一音一音連ねる絶え間ない動き、ピアノのキイにどう触れようかとその人の全霊を込める瞬間、瞬間にこそ、命と呼べるものがあるのでは無いか、と思うのです。先日、NHKの番組でボクシングでグローブに絵の具を付けて、壁に打ちつけて絵を描く画家、篠原有司男さんが、芸術とは美しいものを描くことでは無いというメッセージを込め、手に絵の具をつけ、パンチする行為そのものを彼の芸術と意味していたのを見たのですが、どこか、似ているのでは、と、感じております。命とは、死という結果に至る流れでは無く、生きていく課程に置ける絶え間ない経験にこそ在るのでは無いだろうか、、、と考えております。
(ちなみに、篠原有司男さんと奥様の乃り子さんのドキュメンタリー映画『キューティー&ボクサー』も面白そうですね!)。

そして・・・時計が12時を回り、サンタクロースが空を駆け巡るこのクリスマスの夜に、世界中の母たちが願うわが子の幸せに思いを馳せるのです。私たちのこの愛を結集したら、もし、合わせ方さえ適切であるならば、もう何もこわいものは無いのではないか・・・と。

先日、サンタさんがどんなお洋服を着ているのかをお嬢様に質問されて、いかにもサンタさんらしい赤いお洋服などの説明をしようとして、ちょっと恥ずかしくなりました。サンタさんは確かにこの世にいます。でも、赤いお洋服を動かぬものとして継承するべき意味はあるのだろうか・・・と。 ちょっと用心深くなっている私です[E:happy01]

とはいえ、明日の朝のお子様たちの歓声を想うと、私まで嬉しくなってしまうのです。