前回フェリクス ホフマンの「ジュラ地方のクリスマス物語」についての記事をアップさせて頂きました。以来、気になっていることがあったのです。それは、何故、この絵に私は子供時代の思い出を喚起させられたのか・・・ということでした。本日は、自身に問いかける内容で、非常に日記的な文になってしまい、恐縮でございますが、もし宜しければ、しばしお付き合いくださいませ。

まず・・・まだ絵が到着しておらず、画像を載せることが出来ません。大変分かりにくいのですが、絵の構図を少しご説明させて頂きますと・・・

絵の中央にある黒く深い森は、絵画全体の3分の1ほどをしめ、林立する立木で鬱蒼とし、殆ど黒く塗り込められているかのように見えます。が、よく見ますと、その森の上半分には、羊飼いたちと羊の群れが描かれ、彼らに覆いかぶさるようにして頭上から話しかける大きな天使様を見上げているのです。また、森の下半分には厩があり、マリア様がヨセフとともに幼いイエス様を抱いているところが描かれ、森の中には、厩に向かっている人々も描かれているのです。また、森の周りは、白地に、炭で町並みが描かれているのですが、マリア様がベツレヘム・・・ならぬ、その森の中の厩に向かっている場面や、3人の博士たちがそれぞれの捧げものを手にしている場面など、時系列に関係なく、イエス様のご生誕に纏わる事々が同時にいくつも描かれているのです。そして、これらの町並みは全て、スイスのジュラ地方を題材として描かれているのです。

学生時代、私は卒論のプルーストの『失われた時を求めて』についての最初のテーマを「『失われた時を求めて』における夢と現実の狭間」で書こうと考えておりました。結局・・・そのテーマは不肖者の手に余り、終わってしまいました。しかしながら、あの時、自分が描きたかった「夢と現実の狭間」とは、この様な構図であったのでは無いか…と、今考えているのです。・・・昼間の現実が取り巻く中心にある闇=過去。しかし、その、一見暗く目を凝らさねばならない闇は、豊かな闇であり、豊かな色彩を湛えた暗がりであり、その暗がりゆえに、背後に隠され、控えて在る過去は、無限大になりうるということと、その闇は決して過去を葬るのではなく、生き生きと内包し続けているということ・・・。「夢と現実の狭間」とは、こうした暗がりの中で現実から背を向けて過去の時間に分け入って行く森の様な所と言えないだろうか。人々は、暗がりに足を取られながらも、覚束ない足取りで、闇の中におぼろげに浮かび来る過去が放つ芳香を頼りに、その人独自の印象による構築物=夢を造り出すのではないか。人は現実から背を向けて夢を見る。その夢とはその人が過去に経験した様々な印象をモザイクのようにまぶして再構築することから出来上がるのではないか。そして、夢とは、時には誤った独りよがりの印象を押し付けて成り立っていくものではないだろうか・・・。などとも思えるのです。

最初から惹かれたホフマンの絵の中心にある暗がり・・・ホフマンの絵の素晴らしさは、まさに、この中心の森、闇の中に在るのではないでしょうか。

また、・・・ホフマンが遠い過去のキリスト生誕を各自の「今」「此処で」として捉えたように、この絵は見る者それぞれに、それぞれの「今」「此処で」を投影して見ることを許しているのでは無いのだろうか。例えば私は、この絵に私の人生を投影して見ていたのではないか・・・と。
ホフマンがキリストの生誕という過去の現実を、「今」「此処で」として描くことは、実際、全く特別なことでは無く、実は誰しもが頭の中で、心の中で行っていることでは無いか、とも思うのです。例えばキリスト教教育の幼稚園でキリストの生誕をクリスマスページェントを通じ経験した私の場合、今でも思い描く厩にはどこか幼き日の想像の部分が大きく作用しているように思えるのです。この絵を見つめているうちに、深い森の中を歩いて厩に向かう2人の幼い少女は、妹と私に姿を変えていくように思えますし、2人が帰っていく先にあるのは、子供時代過ごした家であり、それはまた、神様と出会える場ではないでしょうか。

この絵は、優勢な昼間の現実の世界の限界と、劣勢な夜の過去の世界の可能性の拡充との二者の価値観の転換を感じさせます。昼間の白い光の中よりも、闇の中に感じる光は暖かく、好ましく、居心地が良いのです。人々は、闇に入っていこうとしています。絵の中に、動きが生じ、人々の流れが、外側から、内側に向かっていくように、求心的な動きが在るのですが、この流れこそ、絶え間無く連続していく「今」の中で、「過去」になり続けていく時間はその中心に位置し、時間は螺旋状に中心の奥へ奥へと集積していくのでは無いでしょうか。

幼稚園での厳かなる思い出が、私の中で、こんなにも大きく存在し続けていたのを今回、ホフマンの絵が教えてくれたように思います。この絵は、私にとり、まるでレントゲン写真の様な存在意義を持つ様に思えて参ります。この絵を見た瞬間に、非常に惹かれ、動けなくなり、多くの幼児時代の思い出が蘇ったのは、私の内面の現実と過去との時間的な構図が、そのまま映し出されているかの様な驚きに打たれたからかもしれません。

奥沢教室の手狭な壁を一面覆う程大きな絵なのです。しかしながら、私は小さなお子様が宝箱の中に想像の宝物を沢山詰め込むようにして、あの絵の中心の森の中に、私の過ぎた日の・・・幸せな子供時代の思い出を宝箱のように沢山詰め込んでおきたかったのかもしれません。絵とは、もしかしたら、そのような大人にとっての「宝箱」になり得るのかもしれない・・・と思います。日傘を差して風に吹かれる夫人の表情に清らかなるお母様の思い出を詰め込んでいらしゃる方・・・憂いを含んだ表情の女性に恋する方への思いを閉じ込めていらっしゃる方・・・。いらっしゃいませんか?