人生において困難な局面に立たされた時、その立ち位置が、歩きに歩くうちに、喜びに繋がる道への入り口であったのだと知る時が来るでしょう。私の尊敬して止まない武藤先生のプルーストについての講義の中での「生とは絶え間ない死からの跳躍である」という、生を連続した点とする捉え方は、私のこれまでの人生の中での辛さを和らげ、喜びを増して下さいました。「現在」起こっていることだから価値があり、「過去」に起こったことは価値が薄れているという考え方は、ある人が全力で生きた人生の価値を葬ることになるのではないでしょうか。これから母の余命があと幾ばくも無いというお話を伺いに病院に向かうという時にも、私は、唯一、先生のプルーストの講義のノートを抱えて新幹線に乗りました。何故なら、そうした時間の捉え方は、母との幸せであった日々の重さを鮮明にしてくれ、過去が現在と同等の価値を持つようにしてくれるからで、例え、母が居なくなっても、母との時間が「過ぎたこと」ではなく、一瞬一瞬が今ここにいてくれることと同じ価値を付与してくれると信じたかったからなのでした。
とすれば、本日、この時がよき日であることは永遠にその輝きを失わないのです。例え、これから何年が過ぎようとも。例えば本日、嬉しいお知らせを手にされたご家族様にとり、本日の喜びは歳月が流れても、永遠に変わらぬ喜びとして存在するでしょう。
それと同時に、今、この時が悲しみの中に在る場合には、確かにその「時」も消えません。それが、生であり、死からの跳躍である、紛れもない点のひとつだからです。しかし、やがては、様々な重みや価値を持つ喜びや別の悲しみの中のひとつの点になっていくのではないでしょうか。どうぞ、これからのご家族様でお過ごしになられます日々が、今の悲しみよりも、もっと遥かに大きな、輝き続ける「喜びの点」を大切に作りあげていらっしゃいますお時間でありますように、願っております。