芥川龍之介の「桃太郎」を御存じでしょうか。「桃太郎」は言わずと知れた「鬼退治」のお話ですが、私は最近この芥川龍之介の「桃太郎」を読んで以来、これまで何の疑問を抱かないでいた「鬼退治」について、大きな疑問符を抱いてしまっているのです。

芥川の「桃太郎」の冒頭は本当に格調高い描写です。<一万年に一度花開き一万年に一度実をつける><枝は雲の上まで広がり、根は黄泉の国にさえ及ぶ>神秘的な巨大な桃の木から桃太郎がこの世に送り出される様が描かれており、桃太郎がこんなに神話の様に描かれるとは・・・と大変興をそそられるのですが、次には予想外の展開が待っているのです。<桃太郎が鬼が島の成敗を・・・思い立った訳はなぜかというと、彼はお爺さんやお婆さんのように、山だの川だの畑だのへ仕事に出るのがいやだったせい>であり、一方、<老人夫婦も内心この腕白ものに愛想をつかしていた時だったから>出陣の支度をしてあげた・・・とは。それからも、日本一の黍団子かどうか、本人にも怪しかったり、お供をした3匹は互いに仲が悪かったり、<どうも黍団子半分位では、鬼が島征伐のお伴をするのも考え物だ>と、猿が言い出す始末。(この桃太郎はひとつではなく、黍団子を半分に千切って渡しているのです。)もう、抱腹絶倒な破壊ぶりなのです。

一方、鬼が島は<椰子が聳えたり、極楽鳥が囀ったりする、美しい天然の楽土>であり、そこには平和を愛する鬼が琴を弾いたり、踊りを踊って暮らしていたのです。そこで桃太郎たちは筆舌に尽くせぬほどの<あらゆる罪悪>を行うのです。鬼の酋長は丁寧に桃太郎に聞きます、「私どもはあなた様に何か無礼でも致したため、御征伐を受けたことと存じます。・・・ついては、その無礼の次第をお明かし下さる訳には参りますまいか?」

桃太郎の答えです。「日本一の桃太郎は犬猿雉の3匹の忠義者を召し抱えた故、鬼が島に征伐に来たのだ。・・・鬼が島を征伐したいと志した故、黍団子をやっても召し抱えたのだ。」

・・・勿論、桃太郎の本来のお話は村を荒らしに来て村人たちを困らせている鬼たちを見かねて立ち上がる、潔さや正義感、頼もしさあってのお話であり、子供たちのヒーローとしての存在感も大きく、私の教室でも「桃太郎」のお話を好きなお子様は多いのです。私自身も違和感なく受け入れて来たのですが、芥川竜之介の「桃太郎」に触れてからというもの、私の中で「征伐」とは、一体、何なのだろうか・・・という疑問が大きくなりつつあるのです。鬼が島に到着した、正義感に溢れ、おそらくは立身出世の志に萌える昔話の桃太郎は、鬼たちに奇襲するしか無かったのだろうか。ましてや、鬼たちの宝物を奪う必要があったのだろうか・・・と。村で奪われた品を取り返す以上の財宝が桃太郎の引く大八車にはよく描かれていますね。自分に悪いことをした人は、理由も聞かずに組み伏せた挙句、財宝を奪う・・・というお話を、子供たちに繰り返し、読み聞かせることは、良いことなのだろうか、と。そもそも、昔話には残酷な展開がさらりと、素朴に描かれていることがままあります。それが昔話の特質なのでしょう。しかし、「征伐」「報復」をテーマにした昔話の多いことにも今更ながら気づかされるのです。「かちかち山」「猿蟹合戦」「したきりすずめ」「花さかじいさん」、また「ヘンゼルとグレーテル」「シンデレラ」など・・・自分や仲間に酷いことをした相手に対して、昔話が決定的な報復を用意しているのは何故なのでしょうか。調べてみたくなりました。

昔話だけではありません。今、お子様に向かって大人たちが差し出しているテレビ番組でも映画でも、また物語の本でも・・・はたまた、ゲームでも、「敵」がいれば「征伐」する、という図式が本当に多く、それ以外の道が全く用意されていないのではないか・・・と、不安を覚えるのです。ひたすら衝撃を与える為に敵もこちらもぶつかり合う。「戦う前に、話し合わないか。」というセリフがどこかに一か所でも存在しているのでしょうか。「征伐」する理由が、まさに「征伐したいと志した故」「征伐するべき相手故」としか言えないストーリー展開が罷り通ってはいないだろうか、と、考えるのです。

さて、「ぺにろいやるのおにたいじ」(文=ジョーダン 画=山中春雄 福音館書店)でも、最初の段階ではやはり災いを齎す鬼に対して、皆が「征伐」しようとするのでしたが、ぺにろいやるは鬼と話し合うために出かけていくのです。そのぺにろいやるの「ちょっとともだちのところへ遊びに行くような」語りかけや態度に接した鬼の変化は驚くべきものでした。最後に鬼はもういなくなり、その代り、かわいらしい男の子が恥ずかしそうに落ちた鬼のお面に毛皮をかけて隠している姿が描かれているのです。ぺにろいやると鬼が遊ぶうち、ついにはお城も小さくなっていき、最後には美しいテント小屋で遊ぶぺにろいやるとその男の子の姿が見えるだけなのです。

タイトルは「ぺにろいやるのおにたいじ」です。でも、ぺにろいやるは鬼を死なせたりはしませんでした。鬼を鬼としてではなくお友達の様にして接しているうちに、鬼は自ら鬼のお面を脱ぎ、それを恥じて隠すのです。私は、このお話はまったくの作り話であるとは言えぬ深さを持っていると考えております。昔話は昔話として楽しむべきルールもあるのでしょう。しかし、こうした絵本をお子様が知る価値は、計り知れないと私は思うのです。幼いころに出会ったぺにろいやるから学んだことは、お心の奥にずっと留まっており、本当に必要な時に、お心の核から言動を起こす為の原動力となって表面に現れてくるのではないでしょうか。本当に必要な時・・・それは、まだ今は小さなお子様たちが将来、日本の国、世界じゅうの国の人々の幸せを担われる時に・・・と。

ところで、芥川龍之介の「桃太郎」の最後の三行はちょっとしたホラー映画よりも恐ろしい文で締めくくられております。「桃太郎」というお話はどのようにして生まれたのかも、興味を抱きました。昔話の生じ方、語り継がれた意味・・・各国の昔話の比較とその背景にある物・・・面白そうです。