人は、子供が授かることにより、死に対する恐れが無くなるのだと聞いたことがあります。自分が居なくなっても、自分のDNAが受け継がれていくということに生物レベルで安堵するということなのでしょうか。しかし、私はそれよりも、子供がいる、いないに関わらず、人は年を重ねるうちに、「生きる」意味合いが次第に変化していき、それに伴い、「死ぬ」意味合いも変化していくのではないのだろうか、と、最近考えているです。

子供時代の私にとり、生きているということは自明のことであり、自分がここに居て、様々なことを感じ考えるということは<絶対>であったように思います。自分の周りのこと全ても同じくらい<絶対>であり、それらが変わっていくことなど思いもよらなかったのです。そうして、私はまだ未知の世界に出かけ、世界中のことを知りたいと思っておりました。生きるということは、自分が世界を獲得していくこと、取り込んでいくこと・・・無鉄砲なことですが、そのような感覚がありました。ですから、私にとって、「死」とは、そうした<絶対>を根底から問い直させ、脅かすことでした。

世界を獲得しようとしている限り、私は世界と分離していたのだ、と、今は思うのです。それは、見果てぬ夢であり、孤独なことであると思うのです。子供時代、「死」は世界と分離した私をどこか遠くへと連れ去り、あとかたも無くすことであり、小学生という時を精一杯生きている私にとり、自分が「無」になるということを想像するのはひどく困難なことであり、「死」とは「無」の開始でしかありませんでした。

さて、この頃・・・私は自分の中で「生きる」ということも、「死ぬ」ということも、随分変化してきているのを感じ、第三者的に興味を覚えるのです。ひとことで言ってしまうならば、もう、私には「生きる」ことはもとより、「死ぬ」ということも、あまり孤独では無いのだ・・・と感じられるようになって来た、明らかな心の中の変化を自覚しているのです。第三者的に、と申しましたのは、こうしたことへの急激な考えの変化に対し、自分でも追いつかない程、自分の心の変化に驚いているからなのです。

変な例えかも知れませんが、若いころの私が個体であったとすれば、今の私はだんだん気体に近くなっている様な感じさえするのです。若いころの世界からの分離時代から、人は、年を重ねるごとに、次第に世界に融合し、最後には一体化していくのではないか・・・そんな風に思えるのです。

獲得しようとなどしなくても、自分は世界の一部であり、既に繋がっている。植物の上にも、私の上にも、海の上にも、雨は降り、日の光は注ぐのに、自分の都合だけでその時自分が願っている日の光に対してのみ「恵まれた」と考え、願っていない雨は傘で濡れるのを防ぎつつ、何も与えられないのだと考えがちであるけれど、全てのことが惜しみなく分け隔てなく常に与えられているのではないか・・・そう思えるのです。

病気ですら、何かの不幸な出来事ですら、「良いこと」「悪いこと」の区分なく与えられるのだとするならば、何か、反面には良いことも存在するのではないか、そうも感じるのです。すぐには「悪いこと」の面ばかりしか思い当たらないかもしれません。でも、万物がただ惜しみなく与えられているのだとするならば、「良いこと」の面も存るのではないか・・・と考えるようになってまいりました。雨が今現在の自分にとり、「濡れる不快なもの」としてしか捉えず、傘で防ぐという対応のみをしている時には思いもよらない「良いこと」が、在るのではないか・・・そんなことを実感するようになってまいりました。

雨の恵みが周り中を潤し、やがてはその雨で育った野菜で出来た美味しいサラダを頂く日が来る。また、見たこともないような遠い山の中のダムの上にも雨は降り注ぎ、流れ下り人々の喉を潤す。自分の物差しだけでは測れないことが、この世界には溢れている。そう感じた時に、私はそっと目を閉じ、ただ、無心に雨に打たれ、日の光を浴びるような人になれたら、と願うのです。

サバンナの動物たちを見る度に、私はいつもある種の敗北感を覚えて来ました。彼らは、生まれながらにして「自然の一部」として存在し、わざわざ「そうありたい」と願わなくても、既にそこに到達しているからなのかもしれません。大けがをしていようと、彼らはそのけがを嘆くことなく手当てすることなく歩いている。大地の中で晒している赤い傷口が、勲章のように見えるのです。

ところで・・・「自然」に回帰するということで終わらず、実は・・・まだその先に、さらに自分に課すべき道が在るのです。かつて、私はまどみちおさんの「コップ」という詩を読み、目から鱗が落ちるかのような衝撃を覚えました。「コップ」は単に年を重ねるだけでは到底、到達しえない、人としての最終的な「在り方」が指し示されているかのようでした。以下がその詩の引用です。

コップ

作:まどみちお 

コップの中に 水がある
そして 外には 世界中が

コップは世界中に包まれていて
自分は水を包んでいる
自分の はだで じかに

けれども よく見ると
コップのはだは ふちをとおって
内側が外側へ一まいにつづいている

コップは思っているのではないだろうか
自分を包む世界中を
自分もまた包んでいるのだと
その一まいの はだで
水ごと すっぽりと

コップが ここに坐って
えいえんに坐っているかのように
こんなに静かなのは…

100年という歳月を超える詩人としての人生を歩み続けられておられるまどさんの「生きる」ということへのお考えの深さには、本当に自分などどんなに頑張ったところで到底足元にも及ばない・・・という想いに駆られるのです。自分を包む世界を、自分もまた包みかえしているのだという、まどさんの宇宙規模のスケールの大きさのこの世界に「在る」ということ「生きる」ということ。コップが<えいえんに坐っているかのように><静か>である、その<静けさ>をいつの日にか自分も少しは得ることができるのだろうか、と、私はこの詩を読むたびに自分に問いかけるのです。コップが割れて、その存在が人の目に見えなくなっても、コップは永遠に世界を包み込みながら、そこに在るのではないか。世界もまた、永遠にコップを包み続けているのではないか。そんなふうに思われて来るのです。