小学3年生の頃、ある晴れた冬の日曜日の午前中、私は、父に連れられて少し離れたところにある商店街へとお散歩に出かけました。いつもでしたら、出かける時には両親と妹との4人家族でだったのですが、その日私は速足でどんどん歩いていく父の背中を追いかけるようにして歩いて行ったのでした。母とお出かけする時のような浮き立つ気持ちは湧かず、なんとなく緊張している自分を感じていました。当時の父は気難しく、また相当教育パパだったのです。歌謡曲のテレビ番組も見てはいけなかったので、お友達とテレビのお話をするのに苦労した時期もありました。(中学からは徐々に変わってまいりましたが。)私には、その日曜日、太陽が輝いているのにも関わらず、あたりがなんとなく沈んだ色彩に思えておりました。と申しましても、全く楽しくなかったわけではありません。いつもは厳しい父が文房具屋さんで「欲しいものを選びなさい。」と言ってくれたのです。私は、嬉々として水森亜土のカラフルなイラストの付いている透明な下敷きと、同じ柄の手帳と消しゴムを選びました。選びながらも、『もしかしたら、もっと実用的なものを選ぶように言われるかも知れない。』と思っていたのでしたが、それらはそのままレジに通されたのでした。「ありがとう。」と父にお礼を申しますと、大して表情を変えずに頷いてくれました。きっとその時、まだ若い父は少し照れていたのだということも、今になって解るのですが。

次に向かったのは書店でした。父はまた「読みたい本を捜してごらん。」と言ってくれました。私は、いつもの書店の方が子供の本が沢山置いてあって選びやすいのに・・・と思いながら、少ない品ぞろえの中から「ムーミン谷の冬」という本を手にしました。「それが良いのなら、それにしようか。」と言って父は、会計を済ませ、すぐにお店の外に出ました。その後、どのような時間を過ごしたのか、また、本当に何の為に出かけたのかはあまり覚えていないのですが、その帰り道のことはまた鮮明に記憶の表面へと浮かんでくるのです。私たち親子は川沿いの道を家に向かって歩いていました。冷たい風がビュービューと北から吹き付けて来て、あたりはグレイ一色の色彩に覆われているかのような味気なさでした。私は、結局その日、父とのお散歩で最後まで緊張した気持ちを崩しませんでした。(・・・女の子の父親って、往々にして不利な存在ですね。)

帰宅すると、私はその厚い本を包み紙から取り出してみました。その本の装丁は、暗澹たる深い紺色をしており、その日経験した冬枯れの町並みや、吹き続ける北風までをも纏っているようでした。表紙には銀色の小さな星が飾られていましたが、何の慰めにもならず、この本が例えば「小公女」や「秘密の花園」などの絵本の様に、時を忘れるほどの楽しみをもたらしてくれた物とは違うものであるということを、読む前からはっきりと示しているかのように思えました。前に書かせて頂きましたが、私はいつもは猫のように家の一番日当たりの良いところに座り、平和に読書していたのですが、この本に関しては、何故か冷たく、暗い部屋の中で読んでいたような記憶しか無いのです。物語は一家が冬眠中、ムーミンだけが目覚めてしまったところから始まります。おそらく、その当時の私は、読んでいるうちに冬眠中のムーミン屋敷の中に入り込んでしまっていたのでしょう。冷え冷えとしたそのお屋敷に(温かいムーミンママが不在=冬眠中である、ということだけで、私にはそこが居心地の悪いお屋敷そのものとなり、不安な場所になったのです。)やがて、様々なお客様が集まって来ます。
ところで、ムーミンの本の素晴らしさのひとつは、登場人物がムーミンという種に限定されていないことではないでしょうか。まるで異星から集まった得体の知れぬ者と言って良い程、姿も内面も個性に富んでいるのですが、その、個々の人間らしさと申しましたら!彼らは全く異なる自己を発揮し、お互いに関わりあいながら深い冬を過ぎ、やがて・・・春が来るのです!その太陽の光の眩しさは、子供の私の視覚的な記憶として残っているのです。ムーミン谷の人々と長く暗く冷たい冬を過ごしたからこそ、春の輝きの明るさ、そして安堵感の素晴らしさは感動的だったのです。その感動のピークにあるのがムーミンママの目覚めです。ムーミンがごく小さなくしゃみをした為に、ママはしっかりと冬眠から目覚めたのでした。トーベ=ヤンソンは「お母さんて、そうしたものでしょう。」と言っているのです。実際、私が母親になった時、ことに子供が病気の時には、ほんの少しの咳などでも飛び起き、枕元に走って行きながらこの言葉を思い出していたのでした。成長した後、もう「小公女」のセーラの悲しみや喜びを我がことのように思うことは無いのですが、ムーミン谷で起こったエピソードの数々は、大人になった今でも共感し続け、新たに出会い続けているのです。

読んでいて「ワクワクドキドキが止まらない」ような本とは異なる本。それが、当時感じた「ムーミン谷の冬」でした。いわば、人生において経験するであろう葛藤を初めとする苦しみや悩み、様々な負の感情が豊かに描かれ、人同士の関わり合いの複雑さに満ちていました。私は、こうした本も含め、お子様にはありとあらゆる物語に触れて頂きたいと願うのです。いっこうに興味が湧かない本でも、誠実に最後まで読み通すうちに、楽しかった。という感想とはまた別の様々な思いがきっと胸の内に残る筈だと思うのです。子供の頃感じたり、理解するのが難しかった本の醍醐味が成長してから分かったりもするものですよね。作家が子供たちに「私にはこのように世界が見えているのですが・・・。」と斬新な独自の世界観を示しても、子供たちはまだ周りを見ることが出来ずに案外保守的であり、そうした考えについて行けず、戸惑うこともあるでしょう。でも、私は、うさんくさい作家が「お嬢さんたちはこんな世界がお好きですよね。」と、手垢で一杯のありきたりな世界を物語るよりも、よほど誠実であるように感じるのです。相手が小さなお子様であろうと、大人であろうと、自分が見える真実を語っている本こそ、手に取るに値し、本を読むということは、「そうあらねばならない生き方ではなく、そうあるべきその人本来の生き方で生きて行けばいい。」ということを知らずに子供たちの心の中に浸透させていくということではないでしょうか。「ムーミン谷の冬」の本の扉を開くと、今でもあの北風が本の向こうから吹いて来るような錯覚にとらわれますが、当時感じた殺伐とした世界などでは無く、実に個性的な住人達が、それぞれに切実な思いを抱えて生きているということが微笑ましく、暖かな笑いや感動を覚えるのです。

実は・・・今ごろですが、昨年コンサートの折に、小学生以上の方のおみやげのひとつとさせて頂きました「ムーミン谷の仲間たち」も、この<面白くなかった本>の類であると存じております。・・・本は、一生ものですから、私はすぐに読めないとしても、会員の皆様には是非この「人生の哲学書」をプレゼントさせて頂きたかったのです。九つの短いお話しの中には、実に生きていくうえでヒントになる作者自身の言葉が書かれているのです。どれも魅力的なお話しですが、それに気が付かれるのは少なくとも小学校高学年になってからでしょうし、あるいは大人になってからかもしれません。今は、とにかく、ご自分で読んだり、お母様が読んで差し上げて頂き、こうした文章をお子様のお心の片隅にストックして頂けましたら幸いに存じます。また、いつか、ひとつひとつのお話しの素晴らしさを書かせて頂きます。
逆に、示唆に富んでいるとはいえ、ひたすら、こんなに楽しいお話しがあって良いのだろうかと当時思った「たのしいムーミン一家」を未就学のお子様方にはお送りさせて頂きました。是非、親子さまで楽しく読み進めて行って下されば大変幸せに存じます。

明日は桃の節句ですね。皆様、どうぞ素敵な一日でありますように。私は、梅林にちょっとだけ遊びに行ってみようかと思案中です。梅のお花って、本当に可愛いですよね。お花たちには無粋ね!と思われてしまうかも知れませんが、顔をお花に近づけて愛でてみたくなってしまうのです。