随分前から、大学の学食で1人で食事をしている姿を人に見られるのを恥じる学生の存在が取りざたされています。先日、電車の中で声高に会話をしていた学生2人も、いつも**君は1人でいるというようなことを何か特別なことのように話題にしており、一方、自分達にはちゃんといつも一緒にいるサークルの仲間がいて良かった、自分たちは安泰だ、という、ある種の優越感のようなものも感じられました。私は、基本的に大学生であれ、大人は1人でいるものと思っているのです。少なくとも、自分でそこにいる価値を本心から見い出せないのであれば、その集団からは離れるべきだと考えるのですがいかがでしょうか。

2つの輪を描いて、その中にみんなが入っている。オニだけが外にいる。なんだか、そんな子供の遊びを思い出します。オニは、輪の中の人に向かって、ある条件を投げかけるのです。「ももたろうのお話が好きな人。」すると、それに該当する子供たちは一目散にもう一つの輪の中へと移動し、オニはその移動途中に誰かを捕まえることが出来れば、自分が代わりに輪の中へと入ることが出来る遊びです。その輪の中に入っているメンバー同志は、一緒に居るのが嬉しいのでは無く、偶然が大きく作用して輪の中のこちら側に立っているのであり、輪の中に入っているということ自体に価値を見出しているのです。一方、オニは孤独です。輪の中の人を外へと動員するような言葉を発せられなければ、いつまでも輪の外から集団を見つめることになるのです。しかしながら、見方を変えれば、オニは輪には入っていないのです。空間的に自由であり、オニさえその気になれば、世界のどこへまでも歩いていくことだって出来るのですよね。オニは輪の方に向いて、何とか中に入ろうと誘い文句を考え、ウロウロしている限り、そのゲームの中では孤独の立場ですが、一端、輪に背中を向けたら、もう1対多数のゲームは終わらせることが出来るのです。もしかしたら、まだその人は自分が何に興味を持ち、何をしたいのかを見いだせていないのかもしれません。でも、自分が一人で居ていいのだ、ということを自分に許すことにより、その人の人生を虚ろにしていた霧が晴れて、見えてくる道があるかもしれません。何でも良いのです。その人にとって価値あることに没頭することは、輪の中でいつまでたっても変化することの無い「安泰な」人生を送る人々よりも、面白い、その人の特性を生かした人生を送る基盤が出来るのではないでしょうか。そうして、いつかその人の隣に、その人の価値観と対等のものを携えている誰かが座っていることもあるかもしれません。その人は知らぬ間にひとつの輪を自身で生み出していたのだと言っても良いでしょう。望むと望まないとに関わらず、誰かがそっと中に入って静かに微笑みかけたくなるような魅力的な輪が、その人の周りに出来ていたのです。と言って、その人は既に、人がその輪の中に入って来る、来ないに気持ちを左右されることはもう無い筈ですが。

およそ一年前、六本木クラスのお母様が、海外赴任される前に「ウエズレーの国」(ポール・フライシュマン作 あすなろ書房)という絵本を下さったのですが、本当に考えさせられる御本でした。ウエズレーという、仲間外れにされていた少年が、夏休みにだれも見たことの無い、新しい自分だけの作物を育て、食べ、その茎の繊維で服や帽子を編み、一日を8つに分けた自分だけの時間を決め、新しい数の数え方を決め、自分だけの文字や言葉を作り、自分だけの文明を創り上げていく。次第に学校の仲間は魅せられ引き込まれていく。夏休みが終わった時、ウエズレーは一人ではなくなっていた、むしろ、学校中の子供たちが彼の築き上げた「ウエズレー王国」の国民のようになっていたのです。ウエズレーのあんなに幸せそうな顔を見たことが無いと彼のお母さんが言うのですから、しばらくはその状態で満足なのでしょう。でも、人生は勿論「めでたしめでたし」では終わらないのですもの。その後のウエズレーが大人になるにしたがってどのような生きていったのか、非常に興味をそそられるのです。

進学していく小学校、中学、高校、そして大学が、そのお子様にぴったりと合っている環境であると言い切れる為には、あまりにも多くの複雑な要素が混在していて、どんなに素晴らしい学校であったとしてもそれは難しいことではないでしょうか。しかしながら、そのお子様が「自分の王国」を築いていける子供であるか、ということは、どんな環境であっても、そのお子様が幸せに成長していくうえでひとつの要になるのでは無いかと考えます。「自分の王国」を築く為には、強くそのお子様を突き動かすものが必要であり、その原動力になるのは、感動し、深く感じることの出来る感性、物事への観察力、知的好奇心と探求心、自由な発想力、そして、常に思考し続ける習慣などではないでしょうか。大学とは、そうしたその人なりに築いて来た王国の構想を、さらに現実化させる為の、人生での最も豊かに与えられた時間なのではないでしょうか。そこで、一生の師に出会える人は幸せな人です。が、その人が追求することは、何も学問に偏らなくても良いのです。その人なりの王国を築き上げていく過程で、人は、大事な恋人や友人との時間は別にして、やはり「ひとり」を選び取るのではないでしょうか。

仲良しグループでどこかの遊園地ではしゃぐ姿や、常に相手の恋の悩みに立ち入りあう学園ドラマなどの映像は、何のお手本でもなく、むしろ、時代は次のステージへと移りゆく時ではないかと感じられるのです。既にある施設や事物を受け取り、満足する時代は、やがて自分で探し求め、作り出す時代へと変わっていくのではないでしょうか。ちょっとした意識の変化で、これからの若い人に潜在する知性や感性が爆発的にこの世を追い越し、変える時が来るのでは無いか。そんな希望が胸にあるのです。