自身の持つ悩みや苦しみに対して、それを美しいと感じることはあるのでしょうか。かつての私の場合、それは美しさとは対極のものと感じ、出来ればその抱えているものをどなたにも見せたくはない、抱えていること自体知らせたくはないと願いつつも、抱えているその手から、こぼれ落ちる程にその苦しみは満ちていたのでした。その、手から零れ落ちた欠片を見て、もしもその欠片が苦しむのに値しないものと評されたり、逆にこれは大事の前触れであり、そんな程度の悩み方では足りないのではと言う方が居たのでしたら、私は救われなかったでしょう。神様は、ある素晴らしい方と出会わせて下さったのです。その方のお心には、私の悩みそのものを否定するものは何も在りませんでした。そればかりか、その方のお言葉は、私自身の抱えているものがいつの間にか透き通った肯定できるものへと変わっていくことすら感じさせて下さるものでした。それは、その方のお心が美しかったから。そして、おそらくは神様から与えられた「愛」がお心に満ちていらしたからだと思うのです。その方のお心を通され、私の澱んだ悩みは浄化され、私は本当に救われたのでした。真の友情、それは、お友達が何を抱えているのかを知ろうとすることでは無く、また、その悩みを評価することでも無い筈です。悩める人の前に立ちはだかり、じっと見つめるのではなく、そのような苦しみは、あって当然なこととして何も言わずに受け止め、手を取り、ひたすら前へ進んでいかれるようにさりげなく促してくれることがどれ程有り難いことなのかを当時の私は感じておりました。
私は、私の悩みを浄化させてくれたその友人への感謝と友情をおそらく一生抱き続けるでしょう。そのお心に確かにあった、「愛」。コリント人への手紙を最後に引用させて頂きます。

コリント人への第一の手紙 第13章4~8節
愛は寛容であり、愛は情け深い。また、ねたむことをしない。愛は高ぶらない、誇らない。無作法をしない、自分の利益を求めない、いらだたない、恨みをいだかない。不義を喜ばないで真理を喜ぶ。そして、すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてを耐える。愛はいつまでも絶えることがない。

最近、私は、また素晴らしいとしか言い様の無い方に「お友達になって下さい。」とお願いをしたのでした。…きっと、もっと若い頃でしたら、照れて言えなかったであろう一言も、言わないで失って来た人生を振り返ることが出来る今では、迷わず、真剣にお伝え出来るのかも知れません。と、申しましても、お食事を頻繁にご一緒するとか、などとはかけ離れたお付き合い、魂で語り合える方にしか友情は求めません。人生があとどれ程あるのかは分かりませんが、素晴らしい友情を大切に増やしていくことは、もしかしたら恋以上に人生を実りある味わい深いものにしてくれるのではと考えているのです。