昨年のことですが、国立音楽院での授業で、2グループに分かれ、折り紙の中から明るい色彩と暗い色彩を選びとり、それぞれ対照的な街を作るという課題を出しました。そして、その街をよく眺め、どのような音楽が聴こえるのかをピアノの即興で表現して頂き、そこに住む人間、もしくは他の生物、ロボットなどはどんな動きをしているのかを想像しあい、動いて頂きました。黒、灰色系統の街は、取り囲むようにして位置した生徒さんたちが、這うようにして街にしのび寄り、最後には街を破壊してしまいました。孤独・裏切・絶望・不信・鎮魂・・・その街に、その後何が来るのか。むしろ、大量の粘土を使った表現の方が刻一刻と変わるその街の表情を表現するのに有効かもしれません。絶望の街と日曜日のお祭りの活気に満ちた街。それはまったく別の世界では無く、長い時の流れの中では、それぞれが変化する一瞬一瞬の姿であるのかも知れません。確か、白石かずこの詩であったと思うのですが(違ったらごめんなさい)自分の親の告別の為に新幹線に乗ることすら幸せであるというような驚くべき一節をいつか目にしたことがあるのです。大きな災害や戦争を体験された方には、そのことの根本的な意味が分かるのではないでしょうか。壊れては、盛り上がり、美しい幸福に輝く街になり、またいつかそれが変化していく。それは、どんなにそうならぬように祈ったところで、人智の及ばぬ大きな力の為すところなのでしょう。今日、六本木に息子の運転(なんと免許取りたてです・・・)で向かっている時に、ぼんやりと周りを見ておりましたら、突然、町が積み木で出来ているかのように危うく思えたのでした。そんな積み木のような舞台で、私たちは真剣に嘆き、笑い、怒り、そして時に幸福に胸を躍らせ、心を通わせあっているのです。しかし、それがこっけいな事とはまったく考えません。有限の命の中で、私たちはいつも死を忘れ、まるでこれら日々が永遠であるかのように真剣に悩み、苦しみ、生きているのです。私は、そうした姿がとても尊いものであると思います。ましてや、その苦しみが誰かの幸せを願う為のものであるならば、なおのことです。お母さま方とお話しておりますと、その静かな瞳の奥に、お嬢さまへの愛おしさがちらっと見える瞬間があるのです。その一瞬の光はとても素敵です。どんなにお嬢さまのことで嘆いていらしても、その光を遮ることは不可能なことでしょう。敢えてお母さま方にそのことを申し上げたことはございませんが(笑)。

さて、本日、六本木に大変素敵な蝶の標本をお持ち下さった方がいらして、御家族様で蝶を追う光景を想像致しましたら、なんだか和やかで本当に素敵!と思いました。大分前になりますが、このブログの中で「不思議な街の変なお店シリーズ」を書いたことがありました。その2で終わっておりました。今日は、その街の中の「お花屋さんと蝶」について描かせて頂きますね。

5月になると、その街のお花屋さんは急に忙しくなります。お店の中も外も、色とりどりのバラで溢れかえり、持ち切れない程の花を抱えて、人々は街路を歩くのです。明るい色が心の中にまで明るさを届けてくれることをご存知でしょうか。その街のバラは不思議なバラで、そのようにして人々が花束を抱えて歩くうちに、だんだん明るい色の小さな小さな霧のような光の粒に花びらが変わっていくのです。やがて、その光の粒は、抱えている人の腕の中から離れ、空に向かって立ち上り始めるのです。街じゅうの人達が持つバラが、そのようにして大気に漂い、何とも言えぬ芳しい淡い虹のような光の帯となり、やがてその中から、光る蝶が現れては、町のいたるところに舞って行くのです。蝶は自分から、おしゃれな女の子の髪にとまって飾りになってあげたり、お花が一輪も咲いていないお庭では、何匹かで相談をしてお花の真似をして草にとまり、お家の人を驚かせたりすることも好きなのです。その蝶たちは、また、夢の中にまで入り込んでいきます。その蝶たちが夢の中に大挙して現れると、その人は無上の幸福感に包まれ、目覚めた時は、100年の眠りから目覚めたように元気になっているのです。そこで、街の人達は、鳥かごの様な形の入れ物を持って、よく、家族で蝶を捕りに出掛けます。運よく蝶が捕れたら、夢に入って来ることを願い、その蝶を枕元に置いて眠るのです。

皆さまも、今宵どうぞ幸福な夢を!