大人になると本当のことを語らなくなるものなのだと思い込んでいました。そうしたい、したくないといった意志に関係なく、なりたい自分を捨て、「大人」という枠組みにむりやり組み込まれてしまうという恐ろしさや虚無感すら将来に感じておりました。既成概念とは恐ろしいものですね。
私が中学生の時に英語のレッスンに通わせて頂いた、いつかのブログでも書かせて頂いた「フランス夫人」のお宅で、ある日、憧れの夫人との会話中に、自分も大人の様に笑ってみようと思いついたのです。「ほほほほ。」!私は自分の口から出たその変な笑い声に少なからずぞっとしました。本当に自分は今大人と寸分違えずに笑えているように思いました。恐らく聡明な「フランス夫人」も、また変なことを思いついた私に気がつかれていた筈なのです。私は、微かに悪寒を感じつつ、『ああ、これで大人への第一歩を踏み出してしまった。』と後悔を感じていました。本当にあの日あんな笑い方さえしなければ、もう少し私は子供のままでいられたのにと長い年月の間そう思っていたのです。大人になるということは、不自然な自分を強いられることであり、決められた枠に自分を押し込めて手も足も出ない状態になることであると思っていたのです。確かに、何でも感じたことを口にしてしまうのは幼いことであり、土足で人の心の中に立ちいるのも許されることではないですね。そうした意味合いでは何でも口にしてしまうということは子供の頃よりも減っているのでしょうが、本当に大人になると言う事は、逆に、自由を得ることではないかと思うのです。

自分で自分の言う事に責任を持ち、お話をする。大人として守るべきことはそれぞれの立場に立って相手を理解しつつも、語るべきことは真実であれ、という事ではないのでしょうか。そうでなければ会話の意味が無いと思うのです。相手の方の人格を尊重出来ていないということにもなるでしょうし、そもそもご自身の人格をも否定していることになってしまう筈です。しかしながら、人は大人になっても、自分の住むべき国を捜す旅を続けて行くようなものではないでしょうか。自分の住むべき国に辿りついていない旅人は、なかなか真実を語れないのだと思います。自国では無い国では、価値観も違えば、そもそも言葉も違うのですから。そうして歩いているうちは、人は孤独です。でも、人生には運命的とも言える出会いが随所に配されているように思います。もしかしたら、今ある人がいるその場に、同国の民も辿りついているのかもしれません。そうだとして、その人が用心をして自国の言葉、すなわち御自身の真に感じられること、考えられることを吐露することが無ければ、2人はそのまま出会う事無くまた別々の道を歩み始めていってしまうでしょう。

本当に尊敬し合える人を見出した時、それは人生の中で祝福された、孤独感から救い出された時と言えるのではないでしょうか。価値観が同じということは,2人が似ているということではありません。例えばそれぞれが目指す道をお互いが理解しあえるというようなことでしょう。「ほほほほ」と笑う私に「フランス夫人」は大人の真実であるべき姿を常に見せて下さいました。中学生の当時、真実を語る大人や大人らしくない大人をなんとなくルール違反のように感じた時期もありました。でも、今の私から振り返りますと、真摯に生きていらっしゃるその誠実さに打たれるのです。誠実に生きるということは、かっこ悪い日もあるのです。私は宮沢賢治の「ヒデリノトキハナミダヲナガシ サムサノナツハオロオロアルキ 」の姿に本当に魅力を覚えるのです。

もし宜しければ、お子さまとご一緒に「雨ニモマケズ」を朗読なさって見て下さい。もしかしたら、お子さまは「なんだかかっこ悪い人。」と思われるかも知れませんが。