前回の記事で触れました「自分らしさ」について、もう少し補足させて頂きますね!

人は、いつから「自分らしさ」というものを意識し始めるのでしょうか。私の場合は、幼稚園の年長の時に、様々な経験や自分が何が好きで、何に対してときめくのか、ということ、また、自分が習っていること、自分を取り巻く環境などを寄せ集め、「自分を構成するもの」ということをなんとはなしに認識していたように思うのです。宇宙的に言うならば、目には見えないけれども確かな「存在」に星屑が集積することで、その「存在」を確かなものとして形作ることに例えられるかもしれません。私は、その頃、まだ良くはわかっていない「自分」という存在に、あらゆる属性をまぶすことで、無意識のうちに「自分」を確たる存在に作り上げる作業をしていたように思うのです。あらゆる属性・・・例えば、クリスマスの朝、妹と一緒に「サンタさんが来てくれたの!」と喜びの声を上げつつ、プレゼントを抱えて2階から階段を一段ずつ降りて来た日のこと、当時流行っていた革の編みあげブーツを姉妹で色違いで履き、ピアノの先生のお家に向かった日のこと、といった、日々の楽しかった思い出や、自分が本が好きなこと、美しき青きドナウや、アンネンポルカの曲のレコードをかけてお掃除をする大好きな母がいること、時々居なくなるネコのセピアを飼っていること、お祈りのある幼稚園への大きな愛着と誇りと、また、そのクラスの憧れの先生のこと、夕暮れになると西の空を見つめて、西の空の下にはどんなに不思議な街があるのか空想していること、バレエやピアノを習っていること、そして、夕方の5時ちょうどになると消防署の鐘がねんねんころりよ・・・と、子守唄のメロディーを奏でて、それが町中に響き渡ること、等々、私は私の身の周りに起こる事ごとや、自分にとって価値ある大事な事ごとを、みの虫のように身体の周りに巻き付けて、これが「私」なのだ、と思っていたように思えるのです。そして、年長さんになると徐々に自分で自分に評価を下し始め、自分が何に対して強く心が動くのかという事も、認識し始めていたように思うのです。いつも、仲良しのHちゃんのことが心配でした。そこで、乱暴な*君から幼稚園の行き帰りの時に私がなんとか守ってあげなければ!と考えており、1度か2度は、実際にHちゃんの前に立ち、*君から守ろうとしたこともあったのですが、そのような自分をどこかで、『何故、そのように振る舞ってしまうのかしら。誰かを守る役よりも、守られる役の方が、お姫様みたいで素敵なのに。』と反発した思いで評価していたように思うのです。そして、そうしたこと全ても、やはり、「自分らしさ」として取り込んでいたのです。
私は、そのようにして幼稚園の年長児の時に作りあげた「自分らしさ」に対して、子供らしい誇りを持ち、小学校へと入学しました。その後、その「自分らしさ」は恐らく私の芯であり続けていた筈ですが、何度か危機に晒されたことがありました。子供が「自分らしさ」に誇りを持っていると言うことを知らない大人が世間には多く存在するのだということ、そして、それは、子供たちに関わる教師という立場でも同じことだということは、残念ながら事実です。そうした大人たちは罪の意識無くして、どれ程子供たちを傷つけることでしょうか。そして、その子らしさを大切にしない教育は、その子の成長にどれだけ大きな弊害を与えることでしょうか。

本日、あるチョコリットの3期生のお母さまとお電話でお話させて頂きました。小学校を選ぶ際に、最優先して御考慮されるべきことは、ご自分のお子さまがその学校で「自分らしさ」をのびのびと発揮し、またその心を支え、高みへと導いて下さる環境であるかどうか、ということに尽きると思うのです。そのことをこの一年間念頭に置かれ、実際にご自身の目で我が子を伸ばしてくれる環境か、将来望む道へと繋がっている学校か、ということをしっかりと選びとられたお母さまであると改めて感銘を受けました。
そして・・・大いなる望みかもしれませんが、チョコリットに通われた思い出や、そこで出会ったお友達とのふれあいを、お子さまが「じぶんらしさ」を構成するひとひらに加えて頂けましたらこんなに光栄なことは無いと思うのです。心のずっと奥の森の木の枝に、何か解らないけれど、微かに光るものが掛っているのだけれど・・・という位で、充分嬉しいです[E:shine]