マニラで迎える2回目の朝。我々はリサール公園に向かって歩みを進めることにしました。リサール公園は革命家ホセ・リサールにちなんでつけられた名ですが、ホセ・リサールはマニラの眼科医で、20ヶ国語を操り、スペインに留学して帰国。当時の教会が搾取する社会を糾弾し、民衆運動を推し進めようとして弾圧され、処刑された英雄だそうです。息子は、今のフィリピンを見て、ホセ・リサールが何と思うのか、と言っていました。若い人達がアメリカの文化に傾倒しつつある風潮・・・それは何もフィリピンに限ったことではないのですが、外国人という立場に立つと、なおさらその奇妙さが浮き彫りになって来るのかもしれませんね。
その国で暮らすこと。それは、無論、我々がほんの2,3日訪れて、その国の観光に携わる人々とお互いに笑顔を交わして別れるということと根本的に異なることなのでしょう。「気楽なこと」・・・この言葉は、私が学生時代から今日に至るまで、ずっと事あるごとに頭の中に繰り返し巡る言葉であり、フランス映画「天井桟敷の人々」のラストシーンで出会った言葉なのでした。美しいガランスは、愛しいバティストに別れを告げるのですが、そこへバティストの妻ナタリがやってきて言います。「きっと気楽なことでしょうね!」「気楽って何のこと?」「行って・・・また戻って来ることよ。・・・時はあなたに有利に働いて、あなたは思い出に飾られ、初々しい顔をして戻って来る・・・でも、『残って』たったひとりの人と暮らし、日々の細々とした暮らしをともにすることとは違うの・・・。」
お昼に訪れたマカティ地区のグリーンベルトという巨大ショッピングゾーンは、売っているものも、物価もほとんど東京のようでした。南国の木々が南国であるのにも関わらず「南国」をわざわざ演出する為に配されているようで、まるでディズニーランドのアトラクションのようにも見えました。混在する生活レベルのアンバランスさ。そこに覚える奇妙さは、やはり外国人のほうが印象的に感じられるのではないでしょうか。場所によっては絶えず寄って来て物乞いをする、幼稚園児の年齢に見える子ども達。いつも触れあっている私の生徒達と同じ背丈で、同じ細い小さな指で、トントンと腰のあたりを叩いてせがまれた時の、あの何とも言えない気持ちは忘れられません。しかも、彼らは打ちひしがれているようには見えません。むしろ、明るくさえ見えてしまうのですが、それは誤りなのでしょうか。こうしたアンバランスな狭間に立って、「気楽に」では無く、「残って」生活する意味を考えました。
3月11日に日本は大きく揺れ、喧騒の中、私は出発を控えた息子に以下の内容のメールを送ったのです。4月2日のことでした。
<フィリピンでマスコミについて学ぶ価値をあなたは知っていますか。
社会哲学は帰国後四年生、そして大学院でいくらでも学べる。いや、一生自ら学び考え続けられるでしょう。
今回の原発についての発表は、まさに、日本のマスコミの構造や問題点を露呈していますね。
つまり、圧力にがんじがらめにされ、知っている多くの事実を自ずから封印しつつ、政府はもっと多くを発表すべきだと訴えている。この矛盾、面白いと思いませんか。口を塞がれていても、漏れ出、噴出する僅かな部分。そこが、今の日本のマスコミの良心であり真実の叫びなのではないか。政府は発表すべきだと叫びつつ、本当はマスコミ各社も掴んでいる多くの事実を飲み込まざるを得ない現状。としたら、そうした叫びはマスコミに携わる者が自らの体制に対して抱くジレンマそのものではないでしょうか。
言うまでも無く、マスコミに携わる者が変わっていくことで、この国の人々をもっともっと守って いけるのではないでしょうか。マスコミが保身を図らずして、塞ごうとする手を剥ぎ取り、国民に多くの真実を提示する時、私達はようやく私達が取るべき行動を知ることが出来るのではないか。子どもたちを災いから守ってあげられるのではないか。そして、そのマスコミが変わる原動力は、『正義』の原点に回帰することから生まれてくるのではないか。
マスコミは、何故存在するのか。または生まれたのか。その根幹にあるものは、『正義』であると思いますが、どうですか。この国が健全であることを願い、人々に安全に生きる為の情報を提示し続け、常に政治が密室化し、澱む空気の風穴としての役割を担い、生まれたのだと考えます。ですから、そのマスコミの役割が空回りしている国は、あるいは歯車にしがらみが巻き付きすぎて機能していない国は、国全体に政府の空気の澱みが蔓延していってしまうのではないか。そう感じるのです。
フィリピンでマスコミを学ぶ意義の大きさや面白さは、フィリピンではこうしたマスコミの根幹を『正義』と位置づけているのだろうか、あるいはこれまでの歴史によって生まれた、別の根幹を持つのだろうかということにあるのではないだろうか。二度と侵略されたく無いという国民意識(が、あると思うのですが)はマスコミの中で健全性を保たれているのだろうか。フィリピンのマスコミは、国民に何を隠し、何を伝えているのかを現実に身をおき、知ることで、その国の政府の澱みや問題点まで見えてくるのではないか。
と同時に、マスコミはその国の国民の姿も映し出している。マスコミが報道するのは、国民が望むことの反映でもあるからです。国民がマスコミの真実に対する健全性の度合いを作り出している。国民がもっと本当に怒りとともに真実を求めて立ち上がれば、マスコミも正義という原点に立ち返り国民に真実を伝える勇気を奮い起こすでしょう。しかし、現状では、国民の真意を非常に敏感に、周到に伺い、競って涙を誘う光景を切り張りしている報道が多すぎると感じています。
『ペンは剣よりも強し。』この言葉はどこまで真実なのだろうか。
私は、恐らくは真実に近いのではと考えます。そして、マスコミに就くもの誰しもが胸に刻んでおいて欲しいと思います。
人々を守る為、正義の為に、ペンにしか出来ないことがある。剣を握る者に頭脳も心もいらないが、ペンを握る者には、頭脳も、そして人間としての心も、必要なのです。
医学等の実学のみではなく、全ての学問は巡り巡って人を人として高め、人を幸福で満たし、悲しみと絶望の淵から救い、与えられた命を良く生きる為にあるのだと考えるのは理想論、空論でしょうか。>
フィリピン大学の学生は、一昔前の日本の学生のように、学生運動もあり、授業前に教壇を占領して演説をする。そこへやって来た教授が、片寄った意見であると痛烈に批判し、追い出すなど、大変な熱気を帯びているそうで、学生たちの意識も学問のレベルも非常に高いそうです。先程、生活レベルのアンバランスさと申しあげましたが、こうした学生達の学問に対する意欲やレベルは、おそらくは徐々に国力にまで反映して行くのではないでしょうか。
マニラ最後の夜、ロビンソンというショッピングモールの本屋さんに立ち寄り、そこで私が見つけたのは2つの壁飾りでした。そこに書かれた文字が、私に与えられた啓示であるかのように思えて、購入して参りました。それは、天使の翼のレリーフの下にこのように書かれていました。
Children are born with wings, teachers help them to fly
そして、もうひとつは・・・
Mothers hold their chidren’s hands a while, and their hearts forever
翌日、早朝、私たちはマニラの空港を後にしました。最後まで残って見送ると言う息子に、ここで見ているから、先にタクシーで帰りなさいね、と言い、走り去るタクシーに向かって手を振っていると、「息子さん?いいわね。」とフィリピンの女性の方に日本語で話しかけられました。「日本語、お上手ですね。」と申しますと、「日本に住んでいたから。千葉、埼玉、大阪、名古屋・・・。」と笑って、「息子のお父さんは日本人で、どこにいるのか解りません。息子は今マニラの高校に通っています。」とお話して下さいました。お互いに、「お気をつけて。」と別れました。子どもを持つ母の思い、そして女性として思う事など、やはり、もっともっと世界の人達とお話がしてみたくなりました。それだけは、変わりようが無い、全世界共通の思いなのではないのでしょうか・・・。
帰りの飛行機の中で、見ました!「ジュリエットからの手紙」の続き。見る前から、ラストシーンは正確に予想できていましたけれど・・・((笑)私は、自分の仕事に夢中である最初の恋人は、本当に見所がある男性ではないか、と思いましたが、仕事仕事と明け暮れ、恋人をほおっておくのがまるで「悪」であるかのように扱われていて面白かったです。
こうして、家族3人で織り上げたマニラ旅行は無事、幕を降ろしました。