日曜日の奥沢の授業の後、横浜そごうに寄りました。すると、1階のケーキショップが立ち並ぶコーナーで、思わぬ、愛らしい光景に出会って・・・。ケーキのショーケースって背が低いのですね。小さな、まだ2歳になっていないようなお子さまの背丈で、丁度ケーキが目の前に並んでいるかのようで。そのお母さまがケーキを買っていらして、注文のケーキを取ろうとしてかがんだお店の若い女性の方の目線と、その子の目線が同じになって、2人でケーキ越しに手を振り合っているのが見えたのです。嬉しそうなお2人。お母さまは何も気がつかずにカウンターの上でお支払いをされていたけれど、綺麗なケーキ越しに、お互いがお菓子の国の住人のように見えたのではないかしら・・・本当になんて可愛い光景なんでしょう!と見とれてしまいました。。。

今日はペーパー演習クラスでした。真剣そのものの時間の後には、お友達と制作やごっこ遊び等を楽しむリラックスタイムがあるのですが、私はこの時間も本当に大事な時間と捉えているのです。

前回、少し書かせていただきましたが、「遊び」への意欲は、まるでどのお子さまからも「先生!私、この遊びをしなくては大きくなっていけないのです!」と訴えられているかのようにすら感じる程です。止むにやまれぬ、その時自分が達成したいことへの実現への意欲。それが、成長していった先での、自己の追求すべき事に向き合う姿勢の原点となり、原動力として働いていくのだと感じ、するべき仕事を達成させる為のプロセスへの学びとなっているのも感じるのです。

私自身、このところ、長年自分が追い求めて来たものを、どのような形でまとめて行ったらよいのか、そして、さらにその先の探求の方向性が少しずつ見えてきているのを感じ、それこそ、子供の頃に感じたような胸騒ぎに胸を躍らせております。こうした気持ちは、間違いなく過去、子供時代に経験したものでした。逆に言えば、大人であっても、自分の興味への対象を深めていく段階を「遊び」として捉えても良いのかもしれません。そうした時間だけは、大人が子供に帰属出来る時間なのかもしれません。芸術家、あるいは研究者もそのような気持ちを持っているのではないでしょうか。例えば、ある画家は子供が遊びの中で、「こうしたい!こうだったらいいのに!」とドキドキしながら願う心に非常に近い気持ちでひと筆ひと筆を重ねているのではないでしょうか。ある研究者は、子供の「この先には、こんな事が待っているのではないか。」というワクワクした思いがその研究を支えているのではないでしょうか。止むにやまれず、何かを求める情熱。それは、まさに、子供の頃の遊びの中から芽生え、育ってきたものではないでしょうか。逆に子供達は、画家が全霊を込めて絵を描くような心で遊びに向き合っているのではないでしょうか。もし仮に、そこまで没頭して遊べていないのであれば、その子は、まだ本当に自分を委ねて遊ぶという経験が出来ていないというように思います。「遊び」は「退屈しのぎ」でも、「手すさび」でも無い、子供の成長にはどうしても欠かせない体験なのであると実感しております。

さて、こうした「遊び」への意欲ですが、一人で追求する大人と異なる点が、「お友達どうし」という集団という形を取る場合です。それぞれが、おのおのの、希望や追求したいことを切実に抱えているのですから、集団遊びの全てを子供たちにまかせきりでは、どうしても、主張が出来るお友達の一番望んでいる形になっていってしまいがちなのです。でも、それぞれの「意見」はそれぞれに素敵で価値があること、そしてその「意見」や「考え」については、声の小さなお友達であっても、とても大切に考えているのであるということへの気づきが、集団としての遊びが、より「将来へとつながる学び」に昇華していく為の、最初の第一歩となるのではないでしょうか。そうしたことの気づきを促し、最大限、お子さま達に遊びの展開はまかせて見守る姿勢は前提としても、上手に集団で遊ぶ為にどう手助けをし、声をかけていくかは、教育者に求められる、大変大切なことであると考えております。「遊び」はそのお子さまにとっての「自己」と「他者」との確立には欠かせない、何よりも大切なことなのです。そして、それを育む「場」が、お子さまにとって心から安心出来る「場」であるべきことは、言うまでもありません。心から安心してこそ、お子さまの様々な能力は発揮され、成長して行けるのですから。

それにしましても、今読むべき本と、まるで導かれるように出会い、また、出会うべき方々ともまるでお互いに導かれるかのように出会うということを、「偶然」とは呼ぶべきでは無いとだんだん思うようになりました。もうすぐ、新しい出会いの春ですね。桜の花の下で、舞い落ちる花びらに手を差し出せる、希望に満ちた春がやってまいりますね。