小学生の頃から大好きだった三銃士。そのあとがきに、訳者の河盛好蔵先生が「原作はもっともっと面白いですよ。あなた達も、いつか読んでごらんなさい。」と書かれているのを読んだ私は、ずっとその一文を忘れずに中学生になり、原作を読み、生みの親アレクサンドル・デュマに憧れたのでした。不思議なご縁で、その後河盛先生には大学のフランス文学の授業で教えて頂くことになるのでしたが、ガイ・エンドア著 河盛好蔵訳「パリの王様」には見事としか表現出来ない、豪快にして鮮やか、ユーモラスでありつつ、ロマンティックなデュマの生きざまが描かれていて、今でも読むだけで元気を貰える本なのです。

このダルタニャン、フランス女王の為・・・と言いますか、その腰元の恋するマダム ボナシューの為に三銃士とともに、イギリスのバッキンガム公のもとにあるダイヤのネックレスを取り返しにいく旅に出るのですが、普通ではありえない日数と体力で見事目的を達成させるのです。ダルタニャン自身の体力も超人的でありながら、それを支えた見事な剣の使い手の仲間達、そして馬がつぶれる宿の先々に新しい馬を用意するなど周到な手を打ってくれた銃士隊長。多くの手に押し出されるように、ダルタニャンは成功を遂げ、そして・・・恋も成就する。ちなみに、この三銃士の続編が高校生の時にどんどん出て、どんなに夢中になって読んだのか知れません。(20年後、ダルタニャンとその仲間たちがどうなっているのか、ちょっと気になる方いらっしゃいませんか。)

私は、当時、この物語の中の誰よりもダルタニャンのようになりたいと思っていたのです。女子校の良さのひとつは、何よりも男性の望む、作り上げられた「女性」を演じる必要が何処にも無いことではないでしょうか。女子だけでいることで、私はより自由に「女性」というものに囚われずに生きられたような気がするのです。ですから、社会に出て、ある男性から「もっと女性と言う事を武器にして生きた方が良いよ。」と言われた時に心の中で起こった反発も大きいものがありました。それは、他人が勝手に作り上げた価値観に屈しなさい、と言われたような響きがありました。

女子校の中に長くいて、まるでぬるま湯の中にいたように、退屈も感じておりました。当時は、退屈しか感じていなかったようにすら思います。でも、今、振り返りますと、女子校にいたからこそ、自分で押し隠したり、つぶしてしまうことなく、育てて守って来られた自我が確かに存在しているのを感じます。ダルタニャンのように、情熱を持って、何事もあきらめずに、目的に向かってひた走る・・・。人事を尽くすという言葉がありますが、ダルタニャンの首飾り奪還は、私に人事の限界を限りなく広げてくれたように思うのです。世間一般の常識では考えられないことも、成し遂げられ得るということ。その不可能を可能にする為に欠かせないのは、何があっても、前へ、前へとひたすら前進していく強い意思と行動力、そして周りのバックアップ体制であるというのも、三銃士に教えられたことなのです。

チョコを六本木で始めて、(チョコリットをこのように呼んで下さったお母さまがいらして、気にいってしまいました。)皆様を合格へと導かせて頂くという仕事にあたり、私の中のダルタニャンは、もしかしたらあの高校生の頃よりも大きくなっているのかもしれません!今日も奥沢で台風の風雨の中お集まり頂きました生徒さん達とお勉強致しましたね。レインブーツでの授業となってしまいました。連日、奥沢でのご指導が続いておりましたが、明日で終了です。とにかく、全員、絶対、何としてでも受かってほしい!という強い思いが心の中で燃えております。(少しコワイですね。[E:happy01])この思いがもしも届けられるのでしたら、是非、受け止めて頂きたいと願っております。