およそ、児童文学に登場する勧善懲悪的な役柄の中でも、一番好ましくない人物が『小公女』の通っていた学校のミンチン先生であると子供の頃には感じていました。そして、もう一人、『ハイジ』がフランクフルトのクララの家で夢遊病に取りつかれる程苦しめられたその元凶とも言えるロッテンマイアー女史。
・・・何故彼女達は、そのような偏狭な女性として描かれているのでしょうか。一体、この奇妙な程片寄った人物像は誰の視点を持って描かれているのか・・・。そう考えた時、そもそも児童文学に登場する全ての大人達は、一体誰の視点や立場を持って描かれているのかという問題が立ち現われて来るのです。

勿論、児童文学と、昔話のジャンルをひとくくりにして語ることなど出来ませんが、子供が読むものであるという点では、共通項もあるのではないでしょうか。民話をもとにした『12の月の贈り物』(『森は生きている』)の中で真冬にイチゴを取りに行かせる継母。勿論、児童文学は大人によって描かれたものがほとんどです。でも、大人であれば、ある人物について、ある一面はこのような欠点もあるけれども、かたやこのような愛すべき点もある、という見方が出来る筈です。

しかしながら、幼い読者に、この女性は夫と死別して孤独であるがゆえに血縁関係に無い娘には何かとつらくあたってしまったが、一方実の娘にとってはそれはそれは優しい母であったので、その娘は母のことが誰よりも好きだったのですが、そうだったからと言っても、やはり主人公には優しく出来なかった・・・などと廻りくどい書き方が出来ないから、表面的な性格描写、設定となっているのでしょうか。もしかしたら、あんなに純粋に優れた児童文学であると信じて来た本の中には、作者が「相手は単純なものの見方しか出来ない子供。」と侮って・・・とまではいかなくても、勘違いした上で書かれているものがあるのではないかと考えてしまうのです。優しい人は最後まで優しく描かれ、意地悪な人はずっと意地悪なままであるけれども、何事かがきっかけで良い人になろうとしたらもうあとはずっと良い人になるなんて幼稚な考え方は、本当の子供達はしていないのではないでしょうか。子供達の大人への目差しは、もっとびっくりするほど大人びて冷静に分析している部分と純粋な夢のような部分を併せ持って日々生活しているのだと思うのです。
また、子供達は、たとえ自分に対してマイナスの心を持った大人がその心の通りに振る舞っても、そのことに対する悲しみは覚えつつも、もしかしたら本当は自分のことを好きでいてくれるのではないのか、そして、そう思えないようなふるまいをされるのは、何か自分がいけないことをしているからではないのかという望みをなかなか捨てない、性善説の信奉者のような部分もあるのかもしれないと思うのです。

以上のようなことを、ふと、六本木クラスの年長クラスのお子さまを拝見していて考えました。優れた児童文学であるとうたわれているものの中に、誤った「子供」認識で描かれたものが無いだろうか、またあるいはどうしても何か重要な理由があって、児童文学はある単純な立場を取る場合があるのだろうか。児童文学とまでは呼べない、簡単に生産された絵本で出会う、そうした単純さはどれ程の毒になるのだろうか、あるいはそんなには影響は無い必要毒?なのだろうか・・・。少し、勉強してみようと思います。