ロシア民謡に「一週間の歌」というのがありますが、皆さまもご存じだと思います。<日曜日に市場へ出掛け糸と麻を買って来た・・・>で始まる一週間の出来事を単純明快に仕分け?た歌なのですが、この単純さが感覚的にとても心地良いのです。まるで、クロスステッチで刺繍した絵のように、細かい描写はなく大まかにものごとを捉えているところになんだか安心さえ感じるのです。(クロスステッチでとても繊細な作品を作っていらっしゃる方がいらしたらごめんなさいね!)
昔、喜多郎の<シルクロード>を聴きながら、ふと、「この人はきっと大ざっぱな人だ。」とつぶやいた方がいました。私も、その時「ああ、まさに私もどこかで思っていた意見だわ!」と共感したのを覚えているのですが、鈍感力とも全く違って、物事をある大きな法則のようなもので捉えてはばからない姿勢、細かな細部をそぎ落としていく姿勢は、時にとても大事なのではないのかと思うのです。
童話「いやいやえん」も大好きな本でした。中でも、一番好きだったのが、終わりの方のお話(うろ覚えですみません)で、3つの山それぞれに、それぞれ違った果物のなる木が生えていることでした。子供心に、この単純明快さはとても好ましく感じられました。それは、まるで、仲間分けの授業時に、私が「ここは、赤い洋服ばかり売っているお店ね。、そして、ここはシマシマの洋服ばかりのお店で、こちらは、水玉の洋服ばかり売っているお店よ。」と言った時の生徒の皆さんの反応の様でもありました。「え~変なお店~(笑)。」どのお子さまも、それが実際にはあり得ない乱暴で稚拙な分け方であることは知っていました。そして、それと同時に、そんな暴挙に出た大人の私に対して、微かに「そんな分け方をしてもいいのだ。」という親和の情(たいへん大げさな言い方ですが。)を抱いて下さっているようにも感じられました。それぞれ違う果物のなる山や月曜日はお買いものの日!火曜日はお風呂をたく火!というものごとの整理の仕方は、子供心にどんどん思ったよりも複雑になっていく世の中の身の回りの出来ごとを、一瞬にして束ねて棚に丸めこんだような爽快感や安心感を感じさせてくれ、なんだか肩の荷を降ろされたように楽な気持ちにさせてくれたようにも感じるのです。
混乱の中にいては、事態はなお複雑化してしまいがちです。目に見える形で物事の整理をするということは、実は成績アップにも繋がると感じているのです。小学校の机の中の整理をかつて積極的に生徒に勧められた大変優れた先生がおられました。その先生は、透明の蓋つきのプラスティックケースにハサミ、糊、三角定規、コンパス・・・など、学習に欠かせないものを入れさせ、いつも机の左側に入れさせ、右側にはノートと教科書をキチンと角を揃えて入れさせました。机の上の鉛筆や消しゴムもまっすぐ置かせました。すると、なんだかクラス全員の背筋も伸び、そのクラスの生徒が主体となって進めて行った社会科の授業の素晴らしさも忘れられません。どの子も発言をするために沢山予習をしてきており、生徒同士が、「では、何故ここで、日出づる国では無く、日沈む国という表現で不快に思ったのでしょうか。はい、**さん。」などと、お互いを指し合い、意見を言い合う、成功した授業が展開されていました。そして、先生はニコニコと眺められ、時に知識の整理などの為に黒板を使っていらっしゃいました。
私自身、その先生の授業の予習が面白くてたまりませんでした。その頃どんどん勉強したくなっていったそのきっかけは、やはり、新しいクラスで最初に先生が教えて下さった机の中の透明な箱であったと今でも思うのです。