敬愛するトーベ=ヤンソンは、小さな島を持っていました。夏の間彼女はそこで創作活動もし、親友と暮らしていたのです。なんと、理想的な生き方でしょう。私には、その島の陽に照らされて濡れた焦げ茶色に光る岩肌や潮の香り、小屋の横に積み上げられた薪の光景までもが懐かしくすらあるのですが、何故なのでしょうか。
島で創作活動をしながら暮らすということは、もしかしたら遠い小学生の日々、日曜日に大好きな本を片手に家の中の陽だまりの場所を捜し、誰からの干渉も受けずにその片隅に座っていつまでもいつまでも本の世界に漂い出ていたことに少し似ているのかもしれません。私は、1人でいることが好きです。でも、人との関係を遮断するのでは無く、周りの世界と繋がりながら、自分の世界を広げていきたいと考えているのです。まさにヤンソンの島での生活は、その究極の実現の形と言えるのではないでしょうか。
島での暮らしについて、ヤンソンは「「海に守られ、隔てられているのに、望めば、海で全世界へとつながっているのです。」と述べているのです。でも、その記事を目にするよりもずっと早くから、私はヤンソンと語ることが出来たなら、島での暮らしについてなんと答えてくれるのだろうか、と考えておりました。そして、そんな思いに直接答えてくれるような絵本が存在したのです。『ちいさな島』という題名です。作者のゴールデン・マクドナルドは『おやすみなさいおつきさま』等で知られるマーガレット・ワイズ・ブラウンのペンネームのひとつで、 絵を描いたレナード・ワイスガードは『あまつぶ ぽとり すぷらっしゅ』も描いています。そして、谷川俊太郎さんが訳されているのです。
大きな海の中に小さな島があった・・・という書き出しで始まる島の一日の、また四季の変化が大変詩情豊かに描かれ、また絵の素晴らしいこと。島には、北から南から様々な生き物が来訪します。その豊かな描写。<島の朝はとてもしずかだった。クモがそよ風にゆれながら巣をはっているだけ。>という文に描かれている絵も、島の小さな白い花や草が時折微かに揺れるのが伝わってくるかのようです。実際日に照らされた海辺に立った者は、海の色も周りの景色も深緑色を帯びて見えることがあることを思い出させられるでしょう。そして、ある日その島にやって来た猫が島や、魚と語りあい、「自分は足が地面についているからこの世界とつながっているけれど、島は水に浮かんで地面から切り離されているから世界とは繋がっていない。」というようなことを言うのです。それについて、魚が猫に、どんなふうに、全ての地面が海の下でひとつに繋がっているのかを語るのです。猫は、海の底に行ってそれを見られはしませんが、それを<信じた>のでした。
島の周りには、時には凪ぎ、時には荒れ狂う海が取り巻いているのです。でも、世界から遮断されているのでは無いのです。
<小さな島でいることは すばらしい。世界につながりながら じぶんの世界をもち かがやくあおい海に かこまれて。>
この最後の一文を、私は瞬時にトーベ・ヤンソンからの答えとして受け取ったのでした。
そして、もっと大きく捉えるならば、この世界に生きていく上で、この島に限らず、隔たりがあるようでいて、全てのものはひとつ残らずつながっているのではないでしょうか。私達はどんなにささやかに咲く地球のどこかの花とも、どこかで悲しみにくれる人とも、喜びに沸く人とも、こうしている今も繋がっていることを思うのです。