道端にキラッと光るソーダガラスの破片が落ちていて、お子さまが拾ってその中を覗きこんだとします。すると、それまで見えていた世界が泡だらけのうす水色の世界に変わるのです。お子さまにとっては、そのように仮に見えている世界というよりも、ソーダガラスの気泡に満ちた世界がそこに出現し、まぎれも無く存在していると言った方が正しいのかもしれません。
・・・ソーダガラス国では、人々は透明な泡のような果物を食べ、泡の乗り物に乗ってお散歩するのです。泡のお家に住んでいて、透明ですから、お隣の人のお家の中がよく見えるのです。時々目が合うとお互いに手を上げてご挨拶をしたりもします。・・・なんて、いかがでしょうか[E:shine]
お子さまに絵本を読んであげるということは、様々なガラスの破片を覗かせてあげるようなことにも似ていると思うのです。先日、年少さんがザブーンザブーンと言いながら力強く海の絵を描いていたのですが、海の中に小さな丸の塊を付け加えたので、「これは何を描いたの?」と尋ねましたら「海の鏡!」と即答されたのです。お母様にそのお話をしましたら、「おそらく、読んであげた絵本『つきのぼうや』の影響です。」とおっしゃいました。お月さまが池に映った自分の姿を見て、つきのぼうやに頼んでそのお友達を連れてかえってもらおうとするお話で、結局つきのぼうやは海の底に沈んでいた鏡を持ち帰ります。この絵本をお母様から読んで頂いた彼女の心に、どれ程深く絵本の世界が浸透しているのかを教えて頂いた思いでした!彼女の心には、海の底に沈む鏡が、永久にきらきらと輝いていることになるのでしょう。絵本というフィルター(覗きガラス)を通して覗いて見た世界は、お子さまにとっては仮の世界などでは無く、そこにある、確かなものであると言えるでしょう。そうして獲得した世界が増えれば増えるだけ、豊かな心と目が育っていくのだと思います。その心と目は、この世界への様々な可能性を限定しないでしょう。あのギリシャ神話の時代の人々のように、この世界を科学一辺倒で判断するという呪縛から解き放たれる力を手に入れるのだと思うのです。
毎日、絵本の雨をお子さまにふんだんに浴びせかけてあげているお母様は、どんなに輝くアクセサリーよりも百倍も美しい飾りを日々お子さまの心の中に置いてあげているのですね。
・・・絵本のおかげで、私の心の中でもいまだに海の奥底に落ちたピアノが鳴っているのです。北欧童話『海に落ちたピアノ』を子供の頃に読んでもらいました。ピアノを大切に磨いてレッスンしていた私にとって、水の中にピアノが落ちるというのは感覚的にありえないことでした。暗い海の底で寂しそうにしているピアノが可愛そうで、よくそのページを開いて見つめていたのを思い出します。今でも、海を目の前にして立つ時、波のざわめきの中に、ピアノの音色が聞こえないかと耳をそばだてる私がいます。幼い頃に心の森の枝にかけてもらった輝きは、おそらく一生消えないのでしょう。