前回のブログでお約束しました通り、今日は紙芝居「おかあさんのはなし」(脚本 稲庭桂子 画 岩崎ちひろ 童心社)についてお話させて頂きますね!
今回のクリスマスご指導で、最後に読ませて頂いたこの紙芝居は、アンデルセンの原作を脚色したものです。ただし、御存じの方も多いと思いますが、結末は大きく異なっております。この紙芝居の解説にも、「そうしたことは許されないことだが、戦争で最愛の妹を死なせた悲しみがこの脚本を書かせた」とあるように、既にこの作品は岩崎ちひろの処女作である、淡く滲んだような色彩で語りかける、純朴で清浄な絵とともに、既にアンデルセンの作品から生まれた別ものの作品であると考えて良いのではないでしょうか。この紙芝居のあらすじは、次の様なものです。
寒い冬、坊やが病気になりました。おかあさんが水汲みから戻ると病気の坊やの姿は無く、死神が連れて行ったのだと悟ったおかあさんは、必死で坊やの姿を追いかけます。湖が阻み、おかあさんは水を飲み干そうとまでし、湖に言われるままに、両目を差し出すのです。墓番のおばあさんには美しい黒髪を差出し白髪になるのも厭いません。そうして死神の庭へと案内してもらうのですが、その不思議な花園には、何千何万という命の花が咲いているのです。目を亡くしたお母さんはかわいい、小さな花の心臓の音を聴いて歩きます。そして、ついに坊やの花を捜しだすのです。すると、そこに死神が帰って来て、お母さんに目を返して2つの井戸を見せるのです。ひとつは、この世のありとあらゆる楽しいこと、幸せなことばかりがありました。そして、もうひとつは、この世のありとあらゆる悲しいこと、苦しいことばかりがありました。死神は、坊やの花の運命がどちらかは言えぬが、おまえがあきらめればぼうやは天国に行けるのだと言うのです。すると、おかあさんが言うのです。
「・・・・・・・・・かえしてください。ぼうやをかえしてください。たとえ、どんなにつらいめにあっても、いきていることはいいことです。そうです、いきていることは、いいことです。ぼうやはいしころのようにだまってはいないでしょう。かなしいこと、つらいことにまけないでたたかうでしょう。もし、びょうきでくるしめば、よのなかからびょうきをなくするしごとをするでしょう。びんぼうでくるしめば、びんぼうというものを、なくするためにはたらくでしょう。つらいかなしいめにあえば、きれいなうたや、おはなしをつくって、くるしんでいる人たちをなぐさめるでしょう。ほんとうにつらいめにあって、しんぼうしたひとだけが、よのなかのやくにたつ、りっぱなしごとが、できるのです。かえしてください。さあ、ぼうやをかえしてください。」
・・・朝になり、ぼうやの頬はバラ色になりました。おかあさんは死神から坊やを取り戻したのです。
私がこの紙芝居と出会ったのは、実に、私が幼稚園生であった遥か昔のことです。けれどもこの紙芝居を幼稚園の先生に読んで頂いた時に起こった心の中の波紋は、ずっと消えることはありませんでした。絵も、お話も鮮烈に私の頭から離れることはありませんでした。まず、このおかあさんの子をどこまでも追い求める姿。それは、ぴったりと自分の母の姿と重なるものでした。自分がこうしていなくなれば、母はどこまでもこのようにして追いかけてくれるに違いない、という共感がそこにはありました。テレビで、裸になった女性が「もっと抱きしめてあげて下さい。」というナレーションとともに、赤ちゃんを抱く広告?がありました。でも、私は、こうした紙芝居や絵本でお子さまの心の中に、様々な種を蒔いてあげたいと考えているのです。愛するということ、生きるということ、人生における不幸の意味、そうした種は、消えません。それどころか、ずっと成長し続けていくのです。幼い私は、この紙芝居で「おかあさんとはそうしたもの。」と、再認識し、安心したのでした。
そして、何千何万の命の不思議な花園の印象も、あの2つの井戸も、私の心から消えることはありませんでした。実際にそうした花園を見たことがあるような気がするのは、もしかしたら、お友達のお家にあった沢山の小さなお花の寄せ植えに投影して見ていたからかも知れません。
そして、現在、この「おかあさんのはなし」を母の立場で見る時、クローズアップされてくるのは最後に書き出した、死神に対抗して言ったお母さんの言葉、死神を退散させたあの言葉なのです。この紙芝居が作られた戦後間もない当時よりも、子ども達を苦しめる要因は大変複雑であり、多様化していると言えるでしょう。不幸にあっても石ころのように黙って耐え、ついには命を落としてしまう子も沢山いるでしょう。不幸と戦うだけのエネルギーが失われてしまったら、子どもの命の花は、現在、生気を保つのに非常に難しい環境にあると思うのです。私達大人は、子どもがどのような環境に置かれようと、それに耐え、戦えるだけのエネルギーを宿した人に成長していくのにはどうしたら良いのかを、子育てをしていく上で、常に考える必要があると思うのです。自分の両目すらも差し出す愛情を持った同じ母親が、きっぱりと死神に言いきった言葉「自分の子どもは、不幸な運命の方でも、構わない!」が示唆するものは何でしょうか。自分の子どもが嬉しいと親も幸せにな気持ちになりますよね。でも、楽しいだけでは、人は成長してはいけないのです。結局は、自分が幸せでいるために、子どもの喜ぶ顔を願う、親のエゴの落とし穴がそこに潜んでいるのかもしれません。子どもを産み落とした瞬間から、私達は、その子の喜びも、不幸も全部を丸ごと抱きとめる、強い覚悟が必要なのかも知れません。
坊やのおかあさんは、自分の子どもが不幸と戦える力を持つこと信じています。楽で、楽しいことのみが子どもに起こることを望んではいません。そして、子どもが生きるということに対し、何度も強く肯定しているのです。そうした心で育てる大切さ、必要性をも、この紙芝居は教えてくれているように思うのです。クリスマスに、サンタクロースも出て来ないこの紙芝居を読ませて頂きました。クリスマスは神様から与えられた「いのち」について考える時であると思うのですが、いかがでしょうか。