「狭間」という言葉に面白さを覚えます。物語や絵本の中で、この世界と異世界とを結ぶのは、この世界のどこかに空いた穴(木の洞:『めっきらもっきらどおんどん』長谷川摂子・文)や扉(衣装ダンスの扉『ナルニア国物語』C・S・ルイス/おしいれの扉『おしいれの冒険』古田足日・文)、また、水(川の中『おっきょちゃんとかっぱ』長谷川摂子・文や海の底『浦島太郎』)など、異世界へとつながる「狭間」はたまた「境界」は、思わぬところに身をひそめているかのようです。
幼稚園児の頃、想像力の逞しいひとつ年上の従姉が地面を掘って言いました。「この、赤い石は鬼の角なのよ。掘り過ぎたら、地面の中から赤鬼が飛び出してくるのよ。」恐ろしい話でした。でも、100パーセント信じていたわけでは無いと思うのです。子どもはもしかしたら、自分の中にもこの世界と異世界との境界をちゃんと持っていて、自由に行ったり来たりを楽しんでいるのかもしれません。・・・本当にそうだったら、面白いのに。本当にそうなる筈は無いと思うけど、でも、もしかしたら・・・!
クリスマスイブの夜、サンタクロースが近所の富岡屋おもちゃ店と小さく明記してある包み紙のプレゼントを置いていってくれることに、何の疑問も持とうとしなかった私は、もしかしたら異世界の暗闇の中で原色の夢を見ていたかったのではないのでしょうか。異世界の暗闇の中に、現実の世界からのかすかな黄色い照明の光が差し込まれる不快感は、もしかしたら子どもにとって、異世界が絶対に必要なものであって、すべてが現実と呼ばれる大人の常識的世界で覆われてしまうことへの拒絶反応であったとも思えるのです。「異世界」とこれまで呼んで来ましたが、「この世界」が絶対的に正しい世界でも無いのですよね。そうであれば、子どもが守ろうとする「異世界」への狭間である、「穴」「扉」「水」などは、子どもが異世界へ入る為の入口と言うよりは、大人の常識が入り込むのを阻止するべく、その前に立ちはだかるべき最後の砦ともいうべきものなのかも知れません。
駅から細い裏道を通っての帰宅途中、あるお宅の塀が壊れ、小さな小さなほこらのようになっていました。そして、その中に小さな緑の植物が育っていたのです。・・・いつも思うのです!こうした、ある意味昭和時代的なほころびが、子どもの夢を育むのではないのかと。理路整然と整えられ、デザインされ、かたずけられた建物が平成的と呼ぶならば、朽ちた木の壁、赤く錆びたトタン屋根、今のように整備されずに実に様々なものが捨てられていた昭和時代の空き地・・・。そうした混沌の中に、子どもは安々と異世界への扉を見つけることが出来るのではないでしょうか。幼い私は、おそらくその小さなほこらの植物を、小さなクリスマスツリーに見立ててしゃがんで眺めたのかも知れません。そして、そのツリーに飾りつけにやって来た小人が確かにそこにいたのだという忘れ物を、捜すためにしばし動かずに見つめていたのかも知れません。
クリスマスにサンタクロースが来るということ、それは、本当であって、本当では無い。でも、本当では無いことでは無いという、まさに子どもが365日常に身を置いている「夢」と「現実」との狭間のスタンスに、大人が参与するという素敵なことであると改めて思うのですが、いかがでしょうか。