年若き哲学的な友人が、私を評して、「あなたは、<場所>(ギリシャ語でトポス)の様な人であると思います。」というお言葉を下さったのですが、こんなに面白い批評は初めて頂いたので、その新鮮さに驚くのと同時に、なるほど、そうかもしれないと考えさせられました。私が目指しているものを端的に表して下さっているのではないかと。そんな哲学の次元では無いのですが、もっと、年を重ね、ついに地に還る時には、私は本当に人々が笑って集う桜が舞い散るお花見会場の地面になっても良いかも知れない・・・。そんなことも思いました[E:confident]

・・・秋風の吹き始めた頃に、その方とはまた別の、年若き友人Mさんから大変嬉しいメールを頂きました!(本当にお若い方とお付き合いするのが大好きな私です。)彼女は、もと国立音楽院の私の生徒さんでした。授業が終わると、彼女といつも話し込んで、一時間くらいがあっという間にたってしまう程でした。後に「私、先生に初めて出会った時、こういう人がいるのなら、私も生きていていいのかな、と思いました!」(笑)という、彼女流のお褒めの言葉を下さったのですが、私は最近、彼女に対して私が担わされていた役割を感じるのです。すなわち、私は舞踏の世界や、舞踊家、大野一雄先生の基に彼女をお連れする運命であったのではないのかと。彼女にとっての、大野先生のスタジオ(現在は息子様が継がれていらっしゃいます。)は、彼女の魂を清々しく生かす、どれほど喜びに満ちた空間なのでしょうか。彼女は「まるであの世に行って帰って来た様。」という言葉を私に送って下さったのでした。私は、「あなたをお連れする役割を担っていたのだと思います。」と返信しました。・・・どなたかを、その方にふさわしい場所に連れて行く役割。会うべき人と、人とが出会う場所を作る役割。そんな、「場所」にまつわる役割が、私の人生に与えられているのだとすれば、私はなんと幸福なことでしょう。そして、改めて、「場所」と評して下さった方の鋭さを思うのです。

・・・若いころから沢山の詩や小説、童話などを書きためて来ました。(どなたにも、読んで頂いたことはありません[E:coldsweats01])今回、Mさんのメールを拝見して、私はふと、昔、人魚姫が海と出会うお話を書いたことを思いだしました。

・・・人魚姫が、常に、渇きを覚えながら生きていました。その人魚姫は、自分が人魚であることを知らなかったのです。彼女は、他の人間に混ざり、街で暮らしていました。アスファルトの道を歩いてはいましたが、彼女の足には、やはり、常に歩きづらさのようなものがありました。ある日、彼女は、ついに海と出会うのです。初めて海を見て、彼女は訳も無く涙が流れ、波の寄せ返しを見つめているだけで、胸の高鳴りを抑えることが出来ませんでした。・・・そして、海に入った時、彼女ははっきりと知ったのです。彼女がどんなに無理をしていたのかを。乾いた海綿に急速に海の水がしみこむように、彼女は海で自分を取り戻しました。萎えていた手足、身体、髪の先まで、生き生きとした生気に満ち溢れ、輝く程でした。海の奥底に、やっと自由になった手足を使って泳ぎながら、彼女は悟ったのです。自分は人魚であったのだと・・・。

Mさんから、最近、またメールを頂きました!大人しく、優しい、遠慮がちで繊細な彼女でしたけれど、随分、彼女の周りも、心も賑やかになっているようでした!楽しそうなご様子で、本当に私まで嬉しくなりました。

「場所」というキィワードを下さった方に、感謝です。そうです!私は、どなたかが幸せになって下さるような「場所」になろうと思います。

舞踊家大野一雄先生につきましては、また、日を改めてお話させて頂きますね!