このブログですが、お読み下さっていらっしゃる方々が判明するたびに、(読んでいますよ、とのありがたいお声を頂きますので。)気楽にお風呂上がりに書いている場合では無いような気持ちになってまいります[E:happy01]そんな私の文章を深く読んで下さり、その解釈に学ばせて頂くことも多々あるのです。

ある方は、私のブログ「人とのつながり」を、大変切ないものと、捉えて下さいました。人が出会いと同時に別れをも経験しているのだということを、非常に哲学的な文面で綴って下さいました。私は、その方の文章を読みながら、映画「レディ ホーク」の一場面を思い出していました。切ない、出会いと同時の別れ。それは、この映画の中で、年老いた司教の横恋慕の為に、呪いに掛けられた恋人達、イザボー(ミシェル・ファイファー)と騎士ナヴァール(ルトガー・ハウアー)の、朝日が昇る(夜と朝の堺)シーンにも象徴されていると思うのです。司教の悪魔との取引は、イザボーを日の出ているうちは鷹に、ナヴァールを日没後は狼に変えるというものでした。昼、ナヴァールは肩に鷹になった恋人を止まらせて歩き、夜にはイザボーが狼を伴って歩くと言うなんともロマンティックな設定ではありますが、この2人が人と人として出会えるのは、ほんの数秒、日が昇る瞬間なのです。イザボーの人の手と、ナヴァールの獣の手が、ぶれながら触れ合おうとし、日が昇り切った刹那、お互い人として2人は見つめ、瞬時に片方は鷹に。こんなにそばにいる恋人同士なのに、出会えてはいないのです。こんなに理不尽なことは、しかし、物語の世界のことだけでもありませんよね。距離的には触れ合える程近くにいても、遠く遠く離れていて出会えるすべもない人間関係も多くあります。
こう考えた時、空間も、そして時間すらも、逆に人とのつながりを遠ざけるものでは無いということを、私は考える基盤に置いておきたいのです。距離は、人と人を遠ざけるものではなく、むしろ遠くからお互いに向き合うことで新たに、常に、出会わせてくれるのではないでしょうか。また、時間は大切に思う人との触れ合いを過去に退けるものではなく、いつの時のことでも現在と対等の価値を持っている。そう、考えるのです。私の心の中の長い長い廊下を、私は離れたところに住む友人の家にも、妹の所にも、昔の家で遊ぶ私のもとにも伸ばして、渡っていくのです。昔の家で無心にお人形で遊んでいた私は、その横に廊下から降り立った大人の私を不審な目で見上げることはありません。・・・ブログというものは、そんな廊下にとても似ているとも私は思うのですが、いかがでしょうか[E:happy01]