フランスが、好きです。で、突然お話はアンデスに飛躍するのですが、学生の時に覚えたアンデス民謡の中に、「風とケーナのロマンス」という歌がありまして、旋律といい、歌詞と言い、何とも言えず、私の大事な歌になってしまいました。哀愁を帯びた旋律で始まる、その歌詞の内容は、集約すると次のようなものでした。
「愛の夢を抱いて草原の地の底で眠る娘の心は、ケーナの歌によって目覚める。
それは、草原のかなたにうずもれたロマンス。今、蘇るその歌。それは遠い嘆きのこだまなのだ。ケーナよ踊れ、風と抱き合い。ケーナよ歌え、風と抱き合い。舞いあがれ、アンデスの空に。」
ケーナとは、あの、「コンドルは飛んでいる」でもおなじみのかすれたような音色の笛です。
で、当時文芸部にも所属していた私は、学園祭に出す雑誌のテーマが「骨」!ということで、何か面白いものは・・・と捜していたところ、このケーナに辿りついてしまったのです。
ケーナは、今でこそ、木などで出来ていますが、始まりは「骨」だったのです。私は「骨」で、ロマンス仕立ての短編を書きたかったのですよ。そこで、物語は、ケーナという名の少女と、ビヤント(風)という名の青年の、お別れの場面から始めました。死の床にあって、ケーナはビヤントに頼むのです。私の足の骨で、笛を作って吹いて、と。「死んでいても、生きていても、同じことよ。だって、私にとって、生きることは、あなたのくちずけと、歌うことだったのですもの。」そして、ビヤントは、そのいとしい骨で笛を作り、ひと吹きするのです。すると、ケーナの笛は半分歌い、半分はビヤントの息をそのまま抱きしめて、流れ出ていくのでした・・・。いえいえ、これは、まだ弱冠二十歳の頃作ったお話ですので、どうか許してあげてくださいませ。で、そこまで気にいった歌を、いつか、フランスに1人旅立ち、緩やかに流れる川のほとりのモレ シュル ロワンという土地を歩きながら、歌おう!と、決めていたのです。・・・以外にあっけなく、その機会は訪れました。冬でした。フワフワ小雪が舞い落ちてくるそのフランス郊外の村の川沿いの道を、私は1人歩き始めていました。そして、今こそ、あの夢の実現の時、と、小さな声で歌い始めたのです。そして、その時も、それから長い間も、私はあの瞬間が一種の自己実現の時とでも思いこもうとしていたのでした。
佐野洋子さんの「100万回生きたねこ」は、なぜ、100万回も死んでは生きたのでしょうか。それは、もちろん、ねこが100万回もの生を、本当に生きていなかったから、本当に死んでもいなかったのでしょう。最後に、ねこは白い美しいねこを心から愛し真に自分の人生を生きたからこそ、その白いねこが死んだ横で、初めて本当に死ねたのだと思います。
モレ シュル ロワンは、雑誌で見つけた美しい村。雑誌の功罪は、確かに大きいものがあるのだと思うのです。皆が、自分の感性の中に、雑誌の情報を取り込み、自分の本質にまでそれらの情報を嚥下していくものだとするなら、恐ろしいと感じます。
かく言う私も、長い人生の中で、あの100万回のねこのように、やっと本当に生きている実感を感じる日々を送れているのを感じるのです。そうして、初めて、あのしがみついていた自己実現の幻影と、さよならが出来る時が来たのを少し驚きとともに、感じているのです。