前回、子供たちには、「出会ったものを、簡単にひとくくりにして、終わらせるようにはなってほしくない」というようなことを書いた。もう少し、補足させて下さい。

例えば、色。
あさがおを見た子供が、空を指して、「あさがおの色。」といったとする。
大人は、「え?ああ、紫ね。」と答える。
子供は、自分のクレヨンの箱の中の「むらさき」と書いてある、
あの色を思いだし、随分、自分が思っていた「むらさき」とは違うなあと、思う。
「お母さん、紫じゃないよ。」と子供は告げる。
「あら、あれも紫よ。」
その瞬間、私は、子供の中で、何かが死んでしまったと考える。死ななくても、少なくとも、何かが眼隠しで覆われてしまったと。
色の持つ微妙な語りかけに応じることもせず、無数の確立の色合いとの出会いを前にして、その子は無表情に「紫」と一瞥して終わるようになる。世界が、ベタな塗り絵に変わる。そこは、生き生きとした生命力の失われた世界。
猫が、ニャアと鳴き、救急車が、ピーポーと走り回る退屈さの蔓延した世界。

幼い子供たちは、皆、初めは詩の修辞法の中で、生きているのだと言っても、良いのではないか。その時、子供たちにとっての世界は、可能性に満ち満ちた世界であり、寝室の暗がりの中に、童話の中の魔女の姿を見たり、小さな塀の隙間の向こうに、夢見た遊園地があるのだと、信じたりしている。
大人になって、そんなことがあるわけ無いと「分別」がついたとき、それは物事が深く考えられるようになったのではなく、ある種、可能性との「決別」なのだと、私は思う。

しかしながら、空を「紫ね。」と言った大人は、まだ良いのではないか。
どんな色の空であっても、「お空は水色でしょ!」と言う大人は、もはや本当に「水色」にしか見えていないのかもしれない。

息子の入園の為の面接で、先生が、「キリンは何色かな?」と、赤、青、黄色のカードを指して尋ねられた。
息子は、困った顔をした。
先生はさらに、黄色を息子に寄せて下さり、質問を繰り返されたが、息子はカードを選ばなかった。
帰り道、「どうして黄色を選ばなかったの?」と尋ねる。
「だって、黄色じゃないから。」と息子。
家に帰った私は、動物の写真を見て、自分の毒され方に驚いてしまった。「いったい、どうして、キリンが黄色だなんて思ってしまっていたのかしら。」

その後、国立のクラスでも、多くの方に聞いてみると、「黄色」が実に多いのである。イラストの影響だろうか?
既成概念が、常に正しいとは、本当に言えないわけですね。

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