早春賦・・・美しい歌ですね。
作詞 吉丸一昌
作曲 中田章
春は名のみの 風の寒さや
谷の鶯 歌は思えど
時にあらずと 声もたてず
時にあらずと 声もたてず
氷融け去り 葦は角ぐむ
さては時ぞと 思うあやにく
今日も昨日も 雪の空
今日も昨日も 雪の空
春と聞かねば 知らでありしを
聞けば急かるる 胸の思いを
いかにせよとの この頃か
いかにせよとの この頃か
<時にあらず>という言葉に日本の人々の美意識がそのまま集約されているかのようで、素敵です。鶯は「春」という名よりも、五感で春を感じとろうと身じろぎもせずに枝の上で小首を傾げて待っている様子が浮かんで参ります。枝を掴んでいる足を凍えさせる雪の匂いのする清澄な風、谷にまだ聴こえては来ない雪解けの水音、蕾の弾ける音、鶯は首を傾げ傾げ、思うのです。「まだ、今では無いのだ」と。こうした、まわりの気配を、人の心を、敏感に感じ取りあい、私達は周りの方々と関わって来たのではないでしょうか。
かつて、紙と木で出来た家屋に住まい、私たちは他者の気配をお互いに感じあうことが出来た時代がありました。伝わってくるその気配から知りえたこと全てを相手にフィードバックするのではなく、見えない振り、聞こえない振りをするべき部分も弁えていたように思うのです。家庭の中でも、障子や襖は所謂プライバシーを密閉することは難しかったと思うのですが、その分、お互いに静かに話したり、といった相手への配慮の必要性が常に求められていたということもあるのでしょう。他者間でも、家族間でもお互いに察しあうという知恵を持ってこそ、上手くいく家屋であったと思うのです。逆に考えますと、そこを疎かにされた人間関係では、相当な不具合が生じていたのではないか、ストレスもあったのではないかと考えられますが。
さて、谷の鶯と比べますと今年の春は少々無粋なようにも思われて参ります。3月という声を聞いて、いきなりご挨拶もなく土煙りを濛々と立てて駆け込んで来たような印象があるのです。自分の感覚を信じた鶯と比べてしまいます。
さて・・・最近、六本木年長児クラスでは、ブレーメンの音楽隊に出てくる<立つ動物>を作りました。どなたも、作っていくうちに、ロバの上にイヌ、その上にネコ、その上にニワトリと、ご自分で器用にスタッキングして「全部乗った~!」と目を輝かせていらっしゃいましたね。
小学校1年生の時に、ブレーメンの音楽隊の好きな場面の絵を描いたのですが、今でも自分の描いた絵ははっきりと思い出せるのです。この絵には、特別な体験が込められていたからでした。
このお話の中で一番印象的だったのは、ブレーメンに向かう途中で夕暮れになってしまい、一軒の家を見つけたのに、そこは泥棒たちが占領していた、という場面でした。この時、動物達の心細さを考えますと、胸が騒ぎました。私は大きな木の前で泥棒を追い払おうと、それぞれの背中に乗った動物を描きました。あたりは、濃紺の闇の色で塗り込めました。すると、一層、動物たちは心もとなげに見えました。そして、その時突然思いつき、ひとつの十字架型の星を空に描いてみたのです。はっきりと描きたかったので、私は黄色の絵の具のチューブを直接画用紙に押し当てて描きました。すると、突如、その絵に希望が見えました。絵全体が、生き生きと生きてきたように感じました。その星はまさしく私がいつも見上げている漆黒の空に圧倒的な輝きを放つ星だったのです。私は空一面に、同じ描き方で沢山の輝く大きな星々の十字架を描きました。描きながら「大人の人が描く星の形では無いけれど、先生が私が描くこの星を認めて下されば嬉しい。」と思っていたことも覚えているのです。もし、先生がその星を承認して下されば、私は私のその場所から先へ進んでいけるということも、おぼろげながら分かっていたことでした。
有り難いことに、先生は私の絵を褒めて下さり、教室の後ろの壁に貼って下さったのでした。それは、大げさではなく、「私のものを見る目や表し方は間違ってはいないのだ。」ということを教えられた瞬間だったのだと思うのです。「感じたように描けば良いのだ、それは、大人の人が描く描き方と違っても良いのだ。」ということを、幼少時ながら体験し、また、事あるごとに思い出して来た絵だからこそ、こんなにもありありと思い出せ、自分にとって、大事な絵なのではと思えるのです。そして、絵の具をパレットに取らないで、直接チューブから描いてみる・・・その、自分なりの表現手段を選べた背景には、やはりいつも私を信じ切って、私のすることを認め続けてくれた母が居てくれたからでは、と思えるのです。
昨日も金曜日クラスでお話しをさせて頂きましたが、お嬢様に対して「もっとこうすれば良かったのに。」というお言葉がどんなにお嬢様の今ある成長段階のお心を傷つけてしまうことでしょうか。その結果、回り道を余儀なくさせられてしまうことも多いのです。早春賦の鶯にかけて申し上げるのでは無いのですが、<時にあらず>を感じ取ることは大事なことでは無いのでしょうか。お嬢様がお友達の前にたったお一人で立たれ、発表される時の鼓動を、紅潮した頬を、振り絞るようにして発するお言葉をしっかりと感じ取って頂けましたら、お嬢様はお嬢様なりに感じる進むべき方向へと成長して行かれるのではないのでしょうか。お嬢様の<今>を感じ取られることを邪魔している、「焦り」というお荷物が、もしお母様をも苦しめているのならば、是非、それらを降ろして、親子で深呼吸をして頂くことも何よりも大事なことと存じております。
ところで、早春賦の歌詞は作者が安曇野を訪れた時の感動を読まれたものらしいのですが、私は特に最後の3番の歌詞を読むと、恋そのものに憧れていた青春時代の様々な想いと重ねてしまうのです。恋ばかりでは無く、若き日の・・・あらゆる事に対する憧れと、これからの人生に対する希望と焦燥を抱いた高校生の想いが蘇ってくるのです。