また面白い本を購入しました。「たべることはつながること しょくもつれんさのはなし」パトリシア ローバー作(福音館書店)です。最近の本の増え方はちょっと尋常ではなく・・・臼から塩が止めどなく出てくる昔話のような勢いで本に溺れてしまいそうです。でも、やはり様々な角度からチョコリットのお子様たちの心と頭の栄養になるものは私には必要なものなので・・・そういえば、本を抱えて選んでいる最中、絵本売場で熱心に絵本を見ていた3歳くらいのお子様が「あ!お日様が見ている!」と言ったのです。夕日がかわいい肩紐からのぞいているお背中を照らしていると思ったら、その子は急に呼ばれたように振り返り、そう表現したのです!(そうした表現の最中にある子供という存在は、私には大人たちが多くを失う前の豊かな宇宙に繋がる存在として尊敬するしか無いのです。)さて、この本は「みつけようかがく」シリーズになっているのですが、こうしたお子様の知的好奇心の世界にお子様と手を取り合い、分け入っていく際に、「何の為に知るのか」というベースが必要なのでは、と思うのです。最初は無心に楽しむことは大事です。でも、子供が成長するにつれて、そうした基盤無くしては、いくら知識を豊富に蓄えたところで、ある日親は繁栄していると考えていた子供の知的な領域が砂漠の中の都、桜蘭のように荒涼たる砂に同化しているのを目の当たりにし、呆然とするのでしょう。言うなれば「天才児、二十歳過ぎればただの人」と言えるでしょう。そういえば、幼稚園で、砂の上に家を建てる愚か者の歌をゼスチャーとともに歌っていたのを思い出します。子供達が様々な経験や体験を通して獲得していく根底には確たる岩盤の様な礎が必要なのです。「何の為に知るのか」、それは、「誰かの役に立つ為に」ではないでしょうか。子供たちは溢れる愛、無償の奉仕の心の可能性を抱えて生まれてくるのではないでしょうか。以前、「親がその子の持つ可能性にどれだけ蓋をしたかでその子がどんな子供になるのか決まる」というお話を取り上げさせて頂きましたが、私たち親はその子の溢れる愛の一筋の流れに敏感に気づき、堰き止めたり、もちろん蓋をすること無く、その湧き出でる微かな流れの道筋をつけてあげるべきであると実感しております。道筋を得たその流れは、やがて年月とともに脈々とした流れへと発展し、人々を潤し、自身も生き生きとした喜びに輝いていくのでしょう。その「誰か」がどんなに小さな虫であっても、たった一人の見知らぬ人であっても、あるいは世界中の人々であっても同じことだと思うのです。「誰かの為に。」その基準なくしては、どんな知識も、またこの世にあるどんな美も、その子の手に積み上げてあげる意味は薄れて行ってしまうのではないでしょうか。この世界はどんな世界なのか。どんな苦難があるのか。それを助ける手立てはどんなことがあるのか。幼くして何も出来ない時期に、心が大きく揺れるような人としての苦難を知ることは必要です。戦争、様々な確執や障害、生き物の存在全部を危うくする生態系の崩れ、そんな大きな問題もある日手に取った1冊の本からスタートするのかもしれません。ただ、「大変だ!」「かわいそう!」というのではなく、自分に何が出来るのか(もちろん、大人になってからのことも含めて)我が事として常に考えるようになってほしいのです。先日、注文していた山本美香さんの『ぼくの村は戦場だった。』(マガジンハウス)が届きました。彼女の存在を知った時、私は強く思ったことがありました。六本木クラスにいらしてくださっているお嬢さま達が皆、それぞれに自分の与えられた道を見出し、全霊を込めて生きて行ってほしいと。その人が「誰かの為に。」という基準を持って「知る」のならば、人々を救い、世界をも変える力に変わっていくのでは無いのだろうかと。小学生の時、いつも考えていました。オリンピックがあるように、世界中の人が手を繋いでひとつの輪になる日を設定できないものかと。家族、隣人、と手を繋いでいき、地球の上で全員が繋がりあうことは出来ないものかと本気で考えていました。(実は、今でもかもしれません。笑)行動観察クラスで培った「相談する力」が、ぐんぐん育って、いつの日か世界を舞台に「あなたはどうしたいの?」「それならば、私はこうするわね。皆、それで良いかしら?」と、にこやかに、そして強く、平和への道へと軌道修正出来るきっかけを作ってくれるような女性に育ってくれたら・・・と。ところで、「研究職」は誰かの役に立っているのでしょうか。「研究する」ということは、自身の好奇心を満たす為、すなわち私的なもの、あるいは利己的なものなのでしょうか。ジョージ・スタイナーは『師弟のまじわり』(岩波書店)の中で次のように「師の教え」について語っています。<知識欲、知りたいという欲求、理解したいという欲求、これらはすなわち人間の脳髄に刻まれている。そして、教師という天職は、この自然の道理につながるものであり・・・別の人間に潜む能力を目覚めさせ、自分が果たせなかった夢を託す。自分が大切と思うことに対して、別の人間が愛を育むように導く。>と。人間には知るということが埋め込まれている。運命的に、と言ってもよいのでしょうか。あるいは、神様からそのように命運されているのでしょうか。だからこそ、まるでオリンピックの聖火のように絶やされずに古代から様々な分野での研究が師によって次世代へと引き継がれているのであり、そうした行いに携わることもまた、人が否応なしに担い、放棄することは許されぬ人としての役割に身を捧げる事なのではないのでしょうか。将来、子供達が何かの研究に従事することもまた、「人間」の為に生きる事であり、また次世代に「知」を継承していく大事な人類としての役割を担っているのだと言えるでしょう。

9月になりました。なかなかお姉さまになりきれないお子様に、こうお話ししてみてください。「誰かと何かを分けるときには、あなたは進んで一番小さなかけら、一番見かけの悪いかけらをお取りなさい。」と。誰かのために自分は最善のものを取ることを止める。それがお姉さまへの第一歩だと私は考えております。配膳の折、3つのお皿を見て、自分用には一番美しくなく量の少ないものを瞬間的に選び取りながら、そのように選ぶ目は、母の教育のにその本質があったことを思い起こしました。

・・・今、メールをチェックしましたら、六本木クラスのお母様からのメールに気が付き、ご質問だったので、迷わず返信してしまいました。お母様方、本当に大変ですね。でも、私は特に今は24時間皆様のことを考えています。夢の中でも皆様とお話しして・・・笑。そういえば、ちょっと今の状態が落ち着きましたら川崎大師様のところにまたお願いをしてまいりますね!まだ時間はあります。最後の最後までご一緒に頑張りましょう。