今年も、元旦のNHKの衛星中継での「ニューイヤー ウイーン フィル コンサート」に酔いしれました。音楽とともに素晴らしいバレエが同じウイーン楽友協会の建物内で繰り広げられ、これほど迄に素晴らしい楽しみがこの世にあるのだろうかと毎年のように思わずにいられないのです。美の結集、極上の楽しさの極みとでも申しますか、溜息の連続になってしまう私です。今年のバレエの衣装はハンガリー風のものもあり、まるで陶器のお人形が踊っているかのように見えました。また、最後にはバレエ学校の子供達が踊ったのでしたが、本当に気品に満ち、愛らしかったです。

さて、わが六本木クラスのニューイヤーチャイルドコンサートも、楽しさに満ちた雰囲気の中、静けさを守るという、難しいことを目指しておりますが、ご参加の皆さまでしたら出来ることと存じております。ご一緒に楽しく頑張りましょうね。当日はトークもあり、お子さまがリラックス出来るお時間と静かにお耳を澄ませて頂くお時間のメリハリも演奏者の方につけて頂こうと存じております。

昨年は、『真冬のお作法の会』で、お茶の先生にいらして頂き、お辞儀の仕方、靴の脱ぎ方、お菓子の取り方、お隣の方へのご挨拶、そしてお茶の頂き方等々を体験して頂きましたね。私の教室では、声を上げて「静かに!」ということはあまりありません。そうしたことは必要ない程、皆さま集中出来るようになるのです。『静けさ』の文化を積極的にお子さまに体験して頂くことは、決して廻り道にはなりません。『静けさ』の価値をお子さまが自ら見出し、そうした場を体験して頂いたら、おそらく自ら『静けさ』を創り出そうと努力するお子さまになって下さるのではないでしょうか。

『静けさ』を身につけて頂く為には、音楽も大変有効です。音楽は、聴くということも身についてまいりますし、聴くということ自体が静けさに繋がっていくのですものね。絵本を読み聞かせるということの大切さも今更申しあげるまでもございませんね。お子さまが何かに集中して耳を傾け、その時に心と頭が動くという経験は、そのお子さまの今後の基盤を作る上で、欠かせないことなのではないでしょうか。この世の中の事象や芸術作品、そして、出会う様々な人、そして学問を柔軟に受け止められる素地はおそらく人生のこの時に出来ていくのだと存じております。

お子さまが何かに自ら熱中している時を大切に守ってあげる大切さ。大人が与えたゲームやおもちゃなどではなく、お子さまが自ら見つけた面白いこと、ということが大切なのですが、見守る時間が容易いものであるとは限りません。しばしば「いたずら」と呼ばれる、お子さまが自ら追求したい課題に熱中している間、お母さまはご自分で許せる範囲との折り合いをつけられるのに苦心なさるかもしれません。でも、お母さまの後片付けの労が十分に報われるような宝物をお子さまが身につけていくのは、実はそうした時間なのだと私は考えます。大人が「無駄な時」と判断しがちなそうした時間は、実はお子さまの人間形成にとってかけがえの無い「豊饒の時」である場合が多いのではないでしょうか。

昔、私がまだごく幼い頃、家から随分離れた大きな川の橋げたのところに、お人形が浮いておりました。私はそのお人形のいる川に行きたくて、祖母に手を引かれて何度も通った思い出があります。その川はかなり汚れていて、木の屑などに混ざり、そのお人形は無表情に仰向けに浮き沈みを繰り返しているだけでした。私は彼女に会いに行かずにはいられなかったのです。祖母は決まって「お人形さん、可哀想にね~。」と言って、私が飽きるまで、いつも付き添ってくれていたのです。その時間がどれ程大人の言う「有益な時」であったのかは解りません。でも、人の心とは、そうしたものも織りなして創られていくのだと思うのです。その時に簡単に必要なもの、不必要なものなど、分けられるのでしょうか。暗緑色の川の色、どんよりとした空の色も心に残っております。

急がせる、ということは、心が育っていく上で大切な寄り道を排除してしまうということになるのかもしれません。せっかくお子さまが自ら経験して獲得して行こうとしている心の中の複雑な素材を獲得する隙を与えないということになりかねません。じっくりとコトコトと時間をかけて煮込んだスープは、深い味わいがありますね。スープと人間を一緒にしてはいけませんが、マニュアルに添ってお約束通りにすばやく作られたものは、それはそれで美味しいけれども、見まわしてみれば、同じ味の食べ物は日本中、世界中にあるのです。人間にも、似たようなことは起こり得ると私は考えます。

私は、「お人形に会いたい。」と言った時に、取るに足らないことと言わずに、いつも私の手を引き、連れて行ってくれた祖母が好きでした。子供達は、なんとはなしに、知っているのかもしれません。そうした時間がどんなに豊かで自分自身を満たす大切な時間であるのかを。