皆さんは、どんなタイプの子供だったのだろうか。例えば、おもちゃ売り場の自由に遊べるコーナーで、あなたが前からほしかったおもちゃを見つけ、手にした時、知らない子がそれを取り上げてしまった。さあ、あなたはどうしますか?今日の国立音楽院の授業で、そんな質問をしてみた。約2名が「返して。」と言える子供だったと思うと答えて下さった。ほしいものを取られたときに、「返して。」と、何のためらいもなく言えたら、どんなに良いだろう。心に、何もフィルターがかかっていない爽快感!以前、幼児教育の現場で、早くから、子供同士の、「いけないのよ!」の牽制のしあいが始まっているのを見て、愕然とした。子供達がいけないとしている基準は、<それをすると、先生が困るから>が、ほとんどなのだと思う。お遊戯でも、皆と違っていたら怒られ、プログラムに参加しない子供は、罰としてお休み時間にお部屋に居残らなくてはならない。魅力あるプログラムであれば、子供の方から参加する。一体、子供たちに、どんな大人になってほしいというのか・・・。

それは、お昼のお弁当の時間になっても、園庭のジャングルジムから、降りて来ない男の子を私が呼びに行った時のことである。「だいちゃん、だいちゃん、お弁当の時間ですよ。」すると、その子は高いところから私を悠然と見下ろしてこう言ったのだ。「おれは、犬じゃねえ。だから、呼ばれても、行かねえ。」・・・言葉は、ともかくとして、その時、だいちゃんは、なんだかサバンナの野生の黒豹のように、すくっと独り立ちして見えたのだ。そう、大人が呼んだら何をしていても、犬のように走って行かなければいけないなんて、大人の都合ではないか。と言って、そのまま先生の立場としては、「そうして、風に吹かれていなさい。」と言ってあげられもせず、「犬なものですか!だいちゃんは、立派な人間の男の子ですよ。今日のお弁当、何かな?」と言うと、するするっとジムから降りてきてくれたのだった。自分の気持ち、それを、取るに足らぬものとして、幼稚園のスモックのポケットの中に押し込んで、皆、そのままそこに忘れたまま、卒園し、小学校に行ってしまうのか。いや、どの子も生き生きとしたお顔で卒園していった。どんなに、剪定されても、青々と、自由に伸びゆく力は、どの子供もまだ持っているのだ。青山学院の、あの絵具まみれになって、大きな布をキャンバスにして、子供たちが体ごと制作に挑んでいく授業等は、まさに子供たちの自由な感性や思考力を伸ばしていく「インプット」の部分にダイレクトに働きかける。大量に使う絵具等の教材費、あとかたずけの手間。そうした理由で、色々な授業の可能性を追求したいのに、却下されていくような教育の場では、先生も、そして何より子供たちも不幸である。伸びゆく自由な力に、蓋をしてしまうことの、損失!

今日の私の授業では、心のフィルターを外し、人と違っていても良いのだという自信を子供たちに持たせる試みを体験したのだったが、そうした、小さな自信、成功が、子供たちを大きく変えていけるのだと思う。幼児教育は、大河の源流のようなもので、小さく見えても、それが、最後に全体へとつながっていくのだ。

今日の絵本研究には、ロシアの民話『ゆきむすめ』を取り上げた。ロシアの民話には、救いの無いものが多い。そうした、救いの無さを、子供は案外、そういうものとして受け入れ、大人は、愕然とするようだ。かつて、『おだんごぱん』を読んだとき、最後に、きつねが主人公のおだんごぱんを、食べてしまったシーンで、終わっていたので、お母様方が、「ええ・・・終わっちゃったの?!」と、驚かれていたが(主人公、例えば、白雪姫が、「毒りんごを食べて、倒れて死んでしまいました。」で物語が終わったら、確かに!)今日の「ゆきむすめ」は、子供の無い老夫婦が、雪で人形を作ると、それが生きた娘になる。ゆきむすめは、元気に遊びたがらず、ある日、老夫婦は無理に勧めて娘を遊びに出す。そして、娘は、火の上を飛び越す遊びをするはめになり・・・。この本を読み終えた時、「衝撃的・・・!」と生徒達が言った。この寂しい結末を迎えたのは、老夫婦の無理強いである。子供を型にはめる恐ろしさが、簡潔に描かれていると思う。老夫婦は、子供は日の光の中で、元気に遊ぶべきものと思い込んでいたのである。むすめを外に送り出して、安心したかったのは自分たちであったのだ。しかし、娘は、彼らのもとに、帰っては来なかった。雪で出来た娘は、火の上を飛び越えた時、煙になって消えたのである。『ゆきむすめ』は、ヘッセの『車輪の下』にも通じるものがある。

絵本には、生きていくうえでの知恵が、いっぱい込められている。そうしたものに、多く出合うことは、間違いなく子供の心の栄養になっていく筈である。